故郷に還るドヴォルザーク

全てのものが全ての人のためにあるわけではなく、
全ての人が全てのもののために生きているわけではない。

まさにそうでしかない、このような言葉をドヴォルザークはアメリカを去る直前に、プラハの自分の弟子に書き送っている。

ドヴォルザークがアメリカを去ったのは、彼が故郷を愛するゆえのホームシックからだといわれている。それも、まさにそうなのだろう。

しかし彼にとっての「ホーム」、つまり故郷とは何だったのか。 “故郷に還るドヴォルザーク” の続きを読む

シューマンの最終楽章

クラシック音楽に限らない話かもしれないけれど、作品の立ち位置が不安定だと、なかなかその作品は演奏されないし、よって聴かれる機会も少ない。
でも、立ち位置というのは今よりずっと以前から、いろんな人が果たしてきたことの上に定まって来たものであり、それなしにはいま不動の名作として君臨している楽曲でさえも、不安定で知られないままだったかも知れないと思う。

「知られざる作品」には、様々な可能性が秘められている。 “シューマンの最終楽章” の続きを読む

ヨアヒムの恋、シューマンの喪失

自由Frei しかしAber 孤独Einsam

このモットーがなぜヨーゼフ・ヨアヒムの所有となったのか。
そこから話を始めてみたい。

1849年、ゲヴァントハウス管弦楽団にいた18歳のヨアヒムは、4歳年上のギーゼラ・フォン・アルニムと出会った。ギーゼラはベートーヴェンとゲーテの間を行き来し、そのままロマン派の最深部に溶け込んでいた詩人、かのベッティーナ・フォン・アルニムの娘であった。
ギーゼラはすでにグリム兄弟・弟ヴィルヘルムの息子ヘルマンと約束のあった身であったらしいが、しかしヨアヒムは彼女にいつしか恋をしてしまったらしい。
1852年、Gisソ# – E – La という音型モチーフをあしらった手紙をギーセラに送った。それはいずれF.A.E.というモチーフに取って代わられることになる3音であった。 “ヨアヒムの恋、シューマンの喪失” の続きを読む

「シューマンを待ちながら」 第一章

サミュエル・ベケットはある小説を書こうとしていた。

それは、表現の「対象」も「手段」も「欲求」もなく、「表現の義務」のみが存在する小説。

登場人物は、そこで発生する何かを体現する。もしくはそこで何かを発生させる。もしくは、何かを叶えたいと願っている。

生きている人間は、そこで発生する何かのために、いつもそこにいるわけではない。そこで何かを発生させるためにいるのでもない。何かを叶えたいと強く願っているわけでもない。人間は存在し、何のためとは自ら知らずとも、そこにいる。

芸術がリアリズムを超え、その芸術を現実が超えてしまった戦後、「ゴドーを待ちながら」は書かれた。

“「シューマンを待ちながら」 第一章” の続きを読む

3つの、2つの、バースデープレゼント

ルイジ・ケルビーニというのはベートーヴェンより10歳年上のイタリアの作曲家。この9月14日に生誕260年を迎えるが、そのことはおそらく誰も話題にしていない。

ケルビーニは1816年、つまりベートーヴェンの後期といわれる時期がようやく始まった頃に「レクイエム」を書き、それは当代随一の傑作として高く評価された。1822年、パリ音楽院の学長になったケルビーニが翌年に新入生として入学してきたベルリオーズを叱り飛ばした話が、ベルリオーズの自伝に面白おかしく描かれている。

ロッシーニの登場によって作曲家としてはもう過去の人になっていたケルビーニではあったが、1836年になって急に6曲の弦楽四重奏曲を出版して、人々を驚かせた。その驚いた人々の中には、いつもながら早耳のフェリックス・メンデルスゾーンがいて、彼はすぐにそれらをロベルト・シューマンに見せて、 “3つの、2つの、バースデープレゼント” の続きを読む