1824年5月のウィーンでウムラウフによる指揮、作曲家の臨席の中、ベートーヴェンの交響曲 第9番 ニ短調の初演が行われた。
翌6月、シューベルトはニ短調の弦楽四重奏曲を書き始めた。
パパゲーノは、首を吊った時に死んだのではなかったか。
ファウストは、メフィストフェレスと契約をした時に死んだのではなかったか。
契約に向かうファウストは言った。
「己の心を人類の心にまで拡大し、 “あの時の、死の行方” の続きを読む
公演のプログラムノート
1824年5月のウィーンでウムラウフによる指揮、作曲家の臨席の中、ベートーヴェンの交響曲 第9番 ニ短調の初演が行われた。
翌6月、シューベルトはニ短調の弦楽四重奏曲を書き始めた。
パパゲーノは、首を吊った時に死んだのではなかったか。
ファウストは、メフィストフェレスと契約をした時に死んだのではなかったか。
契約に向かうファウストは言った。
「己の心を人類の心にまで拡大し、 “あの時の、死の行方” の続きを読む
ヅメスカルというのはベートーヴェンの友人のことだ。
モーツァルトより3歳若く、ベートーヴェンがウィーンに来た頃から死ぬまで、喧嘩別れもせずずっと近くにいた、数少ない貴重な存在だ。
何かがうまくいったときも、うまくいかなかったときも、ベートーヴェンはよくヅメスカルに手紙を書いた。
チェロをおそらく上手に、でも、シュパンツィヒのカルテットには入れてもらえないくらいの腕で演奏したらしい。跳躍があるたびに音を外したのであろうヅメスカルと一緒に演奏するために、ベートーヴェンは「眼鏡必須の二重奏曲」という曲を書いた。 “ある”厳粛な”友人のこと” の続きを読む
私たちは再会した。
私たちは、また別れなければならないのだろうか。
100年前に書かれ、その分野として最高峰とされている作品が、まだ一般に聴かれるに至っていないとすれば、それはどういうことか ……
冷静に考えてみると …… それは、たぶん普通の事なのだ。
なぜなら、 “再会と、別れと” の続きを読む
内面という概念について、ヘーゲルが書いている。
とうとうヘーゲルが出てきたぞ、と思って、自分も身構えている。
ヘーゲルの名を世に知らしめた『精神現象学』(1807) については、誰でもとにかく手に取るくらいの事は出来るというほか自分は説明が出来ない。今からそれを、なんと読んでみようというのだ。
ヘーゲルを読むというのは、矛盾した行いである。しかもそれが『精神現象学』のような、 “内なる声” の続きを読む
ベートーヴェンは作品1からすごいというのは、ビートルズがPlease please meからすごいというのと同じである。どちらもいわゆるファーストとして知られるものを発表したのは20歳の頃、それまでの活動を通じてすでに完成されていたとすれば、いつの段階で完成されたのだろうか。
ウィーン以前、ベートーヴェンの神童時代…
といっても、モーツァルトやメンデルスゾーンのようにははっきりと認識できていないから、少し整理してみたくなった。
モーツァルトの父はザルツブルグの宮廷作曲家であった。
ベートーヴェンはお祖父さんがボンの宮廷楽長だった。
メンデルスゾーンのお祖父さんはモーゼスだった。
モーゼス・メンデルスゾーンがレッシングの思想を代弁する形で、長くほぼ禁書の扱いであったスピノザを復活させたことが、それまで確かにあったと思われた、時代の記憶の多くを消滅させた。スピノザを巡っての論争の末、詩人たちは、神と自然を歌う新たな道を探し始めた。 “フェリックスの遍歴時代” の続きを読む
謎めいた大作として知られているブゾーニのヴァイオリンソナタは、ひとつにはバッハのコラール、そしてもうひとつにはベートーヴェンのOp.109であるホ長調のピアノソナタに範を求めているのだという。
バッハについては旋律がそのまま作品中に出てくるのけれど、ベートーヴェンについてはその「緩-急-変奏曲」の形式に倣ったとだけあって、とまどってしまう。
Du mußt es dreimal sagen.
「おはいり」、とファウストは3度言わなければならなかった。
オペラ「ルル」原作の冒頭の長台詞においても、ヴェーデキントは「おはいりなさい」と3度、猛獣使いにいわせている。
ウェーバーの「舞踏への勧誘」でも、大変に長い3度目の「おはいり」のあと、ようやく舞踏会への入口が開かれる。
ベートーヴェンも2度目の脅しつけるような「おはいり」のあと、3度目の「おはいり」が長く、そのまま追っかけ合いの舞踏会に突入する。
“シューベルト、こちらへ” の続きを読む ルドルフ大公は1808年にベートーヴェンのピアノの生徒となった。
健康の問題で軍人にはならず僧職の道に進み、後にモーツァルトとの関係で有名なコロレド枢機卿のあとを継ぐことになる大公は、ピアノ演奏において相当の腕前であった。
ベートーヴェンは作曲をして手ごたえのあった作品の献呈先を、時々変更して人を驚かせることがあった。ト長調のピアノ協奏曲 第4番も、その例にもれず、別の貴族にあげると言っていたものを撤回して、ベートーヴェンは愛弟子であり最重要のパトロンともなったルドルフ大公に献呈した。
“ベートーヴェン、もう一人の自分” の続きを読む