ウィーンのブラームス チェロソナタ 第1番

ノッテボームというのは大変に偉い人で、ライプツィヒで学んでいたころメンデルスゾーンから見せてもらったベートーヴェンのスケッチ帳に魅了されて、ウィーンに引っ越しをして、まだ誰も手を付けていないベートーヴェンの自筆譜の研究に没頭した。

ベートーヴェンの作曲の過程については、弟子たちがなんとなく語った逸話よりほかに確かなものはなく、アメリカ人のセイヤーが初めての本格的な自伝を執筆していた時期、ノッテボームが始めた研究は今日の自筆譜研究の先駆となるものだった。

ノッテボームはサラミが好きで、いつも決まったお肉屋さんでサラミを切ってもらっていたのだが、ある日、お肉屋さんが渡してくれたサラミの包み紙に何か落書きがしてあるのに気がついた。よく見るとそれは五線譜に書かれた楽譜で、さらに目を凝らすと、どうやらそれはベートーヴェンの筆跡であると気が付いた。でもそれは、これまでに見たことのない作品であった。 “ウィーンのブラームス チェロソナタ 第1番” の続きを読む

マリア・ストゥアルト この世界から

1852年、ロベルト・シューマンの手には女王マリア・ストゥアルトの5つの詩があった。
それは年代順に女王が19歳、24歳、26歳、43歳、そして死の年の44歳に書かれたという5つの詩であった。

 

「マリア・ストゥアルトの5つの詩」op.135

1曲目 ト長調
フランスを離れる女王の詩 一度目の夫、フランス王との死別 “マリア・ストゥアルト この世界から” の続きを読む

これをサリエリに捧ぐ ‥ゆえに我あり

1795年、スロバキアの首都ブラティスラバにあるケグレヴィチ家の宮殿に令嬢のピアノ教師としてベートーヴェンは招かれた。

ケグレヴィチ家は、モーツァルトがウィーンに来る前からウィーンのブルク劇場の監督を任されていた名家で、重鎮サリエリとの繋がりも深かった。
ベートーヴェンはop.2のピアノソナタを書いた1795年に初めてサリエリに出会い、ケグレヴィチ家の令嬢バベッテとの関係はその後で恋愛に発展、長大なop.7のピアノソナタを捧げた。
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メンデルスゾーン、三角、四角の関係

フェリックス・メンデルスゾーンの姉、ファニーの夫となったヴィルヘルム・ヘンゼルには妹がいた。その名はルイーゼ・ヘンゼル。ロマン派の重要な証人となったベッティーナ・ブレンターノの兄、クレメンス・ブレンターノはルイーゼに強烈な片思いをした挙句、敗北した。

フェリックスのピアノの先生、ルードヴィヒ・ベルガーもルイーゼに生涯癒えることのない片思いの恋をした。ある日、友人であるルイーゼの兄がベルガーの元に、最近妹に燃えるような恋心をもって、やはり敗れた別の男、詩人ヴィルヘルム・ミュラーが書いた「美しき水車屋の娘」という詩を持ってきた。衝撃を受けたベルガーは即座に10の歌曲を書いた。 “メンデルスゾーン、三角、四角の関係” の続きを読む

室内交響曲 – Interior of the Sky

「十字をお切りになって、せめて一度でもいいからお祈りになって」
「ああ、いいとも、何度でもきみのいいだけ祈るよ!素直な心で祈るよ、ソーニャ、素直な心で…」
彼は、しかし、なにか別のことを言いたかった。

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ラスコーリニコフがその言葉を言うことは最後までなかった。
そのことによって『罪と罰』の作中のみならず、これまでに書かれた物語の最も美しい一場面が生れた。世界の終わりの夢を見た、そのあと、病の癒えた二人が無言のまま新しい物語へと歩を進める、あの最後の数ページが。

彼らは最後の最後で出会い、夜を迎え、永遠になった。

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クープランに、墓はない。

ラヴェルが中心となって設立した独立音楽協会は、1910年4月20日に第1回となる音楽会を開催し、ロジェ=デュカス、カプレ、ドビュッシー、ドラージュ、コダーイの作曲が演奏されたほか、ラヴェルのピアノ組曲『マ・メール・ロワ』とフォーレの歌曲集『イヴの歌』の全曲初演が行われた。

『ガスパールの夜』とほぼ同時期に書かれた、ペローの童話集のための『眠れる美女のパヴァーヌ』を押し広げた4手連弾のピアノ曲集『マ・メール・ロワ』は、同じ年にピアノ独奏版がラヴェルの友人で出版社デュランの従弟でもある、ジャック・シャルロによって初演された。

独立音楽協会の華々しい立ち上げに成功したラヴェルは、ディアギレフから委嘱されていたバレエの新作、『ダフニスとクロエ』のピアノ版を翌5月には完成させ、自信に満ちた表情でオーケストレーションに取り掛かっていた、その時、パリに激震が走った。1910年6月25日『火の鳥』がピエルネの指揮で初演されたのである。 “クープランに、墓はない。” の続きを読む

時間の終わりの音楽、あたえられた翼

結論からいえば、彼らには音楽以外の何の意図もなく、私の観たものは全て幻影であったのだ。

「あなたが行くなら」チケットを一緒に買っておいてくれると、出不精の自分を誘ってくれる人がいたから、その場でお願いをした。数日後、到着したホールの入り口で「あなたと私は隣の席ではないですよ」とその人に言われて、手渡されたチケットがはたして何への入場券なのか、実感のないままに私はホールに吸い込まれた。

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映画「天気の子」、ラブソングのあとで

自分はいま、京都にいる。

今度東京に行ったら、その東京は自分の知っているはずの東京ではないかもしれない。
電車の駅の中と外を行き来し、過ぎ行く人の顔を眺め、ざわめく声を聴きながら、それがいつもの東京であるのだと言い聞かせる事しかできない。いつも、東京ではそうなのだから。

ひとつの歌によって流された大量の涙は巨大な都市を飲み込んで、今も空から降り続いている。その歌を歌っていた人は姿を変え、ひたすらに祈っていた。その姿を見て、何のためにそうするのかと、自分は尋ねることが出来ない。
東京に来た理由でさえ、自分は誰に尋ねればいいのだろう。
誰がその答えを持っているのだろう。

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メンデルスゾーン –  マタイ受難曲の行方

「完全にオーケストラ作品として演奏されるべき」
1825年、ベートーヴェンが最後の弦楽四重奏を、そしてシューベルトが二つの巨大なピアノソナタを書いていたまさに同じ時に、16歳のフェリックス・メンデルスゾーンがこのような作品を書いていた。それは親友エドゥアルト・リーツに捧げられた。

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ハイドン師匠とルードヴィヒ

ベートーヴェンの最初のピアノ三重奏の初演を聴いたハイドンが、ハ短調の第3番だけは「出版しない方がいい」とベートーヴェンに助言したという有名な話がある。ベートーヴェンが第3番を自信作と思っていたこととの認識の違いを、新旧世代交代とか、ハイドンの新音楽への無理解の象徴とするのは釈然としない。 “ハイドン師匠とルードヴィヒ” の続きを読む