「私は非常に怒っている」

ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヴァシレフスキというのは、ライプツィヒでメンデルスゾーンやダヴィッド、そしてシューマンのもとで学んだヴァイオリニストで、シューマンが音楽監督としてデュッセルドルフに引っ越した際にコンサートマスターとして呼ばれ、シューマンの死まで傍にいたのち、最初のシューマン伝記となる本を書いた人である。
 
「あの作品を書いたときには、非常に怒っていた」と、シューマンはそのヴァシレフスキに言ったということなのである。
 
それは1951年の9月のこと、シューマンが何に怒っていたかの詳細は不明だ。

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抒情組曲

抒情とは、湧き上がる感情を何かの形で表現すること、もしくは、表現によって何かの感情を湧き上がらせること。

「抒情組曲」はシェーンベルクが提唱した十二音技法を用いて、しかし「非常に調性的特徴をもって書く」ことをモットーに掲げて、アルバン・ベルクが1926年に書き上げた大作である。 “抒情組曲” の続きを読む

シューベルトとリスト 隠れた世界への扉

ブルックナー交響曲第8番は、第23小節目から始めれば「魔王」

そのようなことに気が付き始めたのは、つい最近のことだ。

ブルックナーの魔王は、はじめは遠くにうろうろしている魔王が見えてなんだか「気味が悪い」と思っていたら、いきなり目の前に、思ったよりも大きな姿で現れて連れていかれてしまう。
そしてシューベルトの場合は、いきなり魔王が現れて、連れていかれる。 “シューベルトとリスト 隠れた世界への扉” の続きを読む

ある”厳粛な”友人のこと

ヅメスカルというのはベートーヴェンの友人のことだ。
モーツァルトより3歳若く、ベートーヴェンがウィーンに来た頃から死ぬまで、喧嘩別れもせずずっと近くにいた、数少ない貴重な存在だ。
何かがうまくいったときも、うまくいかなかったときも、ベートーヴェンはよくヅメスカルに手紙を書いた。

チェロをおそらく上手に、でも、シュパンツィヒのカルテットには入れてもらえないくらいの腕で演奏したらしい。跳躍があるたびに音を外したのであろうヅメスカルと一緒に演奏するために、ベートーヴェンは「眼鏡必須の二重奏曲」という曲を書いた。 “ある”厳粛な”友人のこと” の続きを読む

エルガー、抽象化される風景

第1次大戦が終結に向かう中、エルガーはイギリス南部サセックス州の田舎に疎開していた。詩人であった妻アリスは傍にいてエルガーを勇気づけながら、段々に自分の体力を失いつつあった。

1918年、エルガーはようやく室内楽をいくつか作曲する気になり、最初に弦楽四重奏を書き始めた。 “エルガー、抽象化される風景” の続きを読む

フォーレ、水面に映る世界

「いま、なにか作曲をしていらっしゃいますか?」

死までの1年間、ガブリエル・フォーレはそのように尋ねられると決まって「いいえ」と答え、いま自分が弦楽四重奏曲を書いているという事実を隠し続けていた。

1922年。
恩師であり、唯一無二の親友、互いにとって最大の理解者であったカミーユ・サンサーンスの死から1か月後、 “フォーレ、水面に映る世界” の続きを読む

ヴェニスに死す、繰り返し

1975年、ベンジャミン・ブリテンは終わりについて考えていた。
自らの死がヨーロッパ音楽の歴史の終結を意味することは、どうしても意識されないわけがなかった。

全てが頭の中で完結され、あとは紙に書き写すだけというモーツァルトの伝説をそのままの形で再現していたブリテンの創作は、それまでに幾度も繰り返されてきたモーツァルトの再来そして死の最後の形態として、1976年、静かに終わりの時を迎えた。 “ヴェニスに死す、繰り返し” の続きを読む

3つの、2つの、バースデープレゼント

ルイジ・ケルビーニというのはベートーヴェンより10歳年上のイタリアの作曲家。この9月14日に生誕260年を迎えるが、そのことはおそらく誰も話題にしていない。

ケルビーニは1816年、つまりベートーヴェンの後期といわれる時期がようやく始まった頃に「レクイエム」を書き、それは当代随一の傑作として高く評価された。1822年、パリ音楽院の学長になったケルビーニが翌年に新入生として入学してきたベルリオーズを叱り飛ばした話が、ベルリオーズの自伝に面白おかしく描かれている。

ロッシーニの登場によって作曲家としてはもう過去の人になっていたケルビーニではあったが、1836年になって急に6曲の弦楽四重奏曲を出版して、人々を驚かせた。その驚いた人々の中には、いつもながら早耳のフェリックス・メンデルスゾーンがいて、彼はすぐにそれらをロベルト・シューマンに見せて、 “3つの、2つの、バースデープレゼント” の続きを読む

新しい道への音楽

1875年5月、ジュゼッペ・ヴェルディは歌劇「アイーダ」を指揮するためにウィーンの宮廷歌劇場にいた。その時、オーケストラで第2ヴァイオリンを弾いていたアルトゥル・ニキシュはヴェルディの指揮から強烈な印象を受け、ヴェルディからの指示を細かに書き記していた。のちに陶酔的な身振りでオーケストラと観客を魅了する新しいタイプの指揮者としてデビューしたニキシュの根底にあったのが、ヴェルディから受けた多大なる影響なのだということであった。

ヴェルディとはどのような人間であったのか。それは知らない。

ブラームスは話題がヴェルディに及ぶと、 “新しい道への音楽” の続きを読む