裏返されたハ短調 – PARTⅡ

「彼女のために存在するのは、私だけでいい」

そのように歌う歌曲『秋に』を、シューマンは18歳の時に作曲しながら発表せず、のちにその旋律をピアノソナタ 第2番の緩徐楽章に写し取った。

1829年、19歳のシューマンは全4楽章からなるハ短調のピアノ四重奏曲を書いていた。その作品はほぼ完成したところで放置され、シューマンはのちに作曲家としてのデビュー作として、同じ1829年に書いたピアノ曲「アベッグ変奏曲」を作品1として出版した。 “裏返されたハ短調 – PARTⅡ” の続きを読む

「シューマンを待ちながら」 第一章

サミュエル・ベケットはある小説を書こうとしていた。

それは、表現の「対象」も「手段」も「欲求」もなく、「表現の義務」のみが存在する小説。

登場人物は、そこで発生する何かを体現する。もしくはそこで何かを発生させる。もしくは、何かを叶えたいと願っている。

生きている人間は、そこで発生する何かのために、いつもそこにいるわけではない。そこで何かを発生させるためにいるのでもない。何かを叶えたいと強く願っているわけでもない。人間は存在し、何のためとは自ら知らずとも、そこにいる。

芸術がリアリズムを超え、その芸術を現実が超えてしまった戦後、「ゴドーを待ちながら」は書かれた。

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「全ては終わった」

 

念仏は音楽か。
私はまだ音楽を聴くように、念仏の楽しみを味わったことがない。
でも、ある時まで自分の耳には念仏のように響いていた作品を、いつの間にか音楽として味わうようになったという経験はある。

例えば、ベートーヴェンの後期作品のいくつかは、それを聴けば一段階違う自分になれるとか何とかいう触れ込みで聴いてみたものの、そこに何か意味を見出し、その意味の中において自分は感銘を受けなければいけないのだと言い聞かせ、耳が受けている信号をなんとか解読しようと努力をした5分後にはひどい頭痛と眠気に襲われた。 “「全ては終わった」” の続きを読む

あの時の、死の行方

1824年5月のウィーンでウムラウフによる指揮、作曲家の臨席の中、ベートーヴェンの交響曲 第9番 ニ短調の初演が行われた。
翌6月、シューベルトはニ短調の弦楽四重奏曲を書き始めた。

パパゲーノは、首を吊った時に死んだのではなかったか。
ファウストは、メフィストフェレスと契約をした時に死んだのではなかったか。

契約に向かうファウストは言った。
「己の心を人類の心にまで拡大し、 “あの時の、死の行方” の続きを読む

知りたい気持ち

音楽に限らず、何か心惹かれる対象があれば、もっとそのことについて知りたいと思ってしまう。

“音楽”に限らない… まずは”人間”で考えてみよう。
あの人のことを気になるきっかけはなんだったのか… と考えてみる。
たぶん、大手有名商社の勤務で、独身で…と同僚がうわさをしている “知りたい気持ち” の続きを読む

バッハのパラドックス

音楽の起源はなんだろうか。
それは音楽が初めて作られたときのことなのか、それとも初めて聴かれた時のことなのか。

例えば、バッハのシャコンヌを人々がいつ初めて聴いたのかなどということは、誰も答えることが出来ない。バッハ自身は、確かにシャコンヌを聴いたといえば聴いたのだろう。しかし、そのシャコンヌは私たちが知っているシャコンヌとは別のものであったかも “バッハのパラドックス” の続きを読む

ニコライ・メトネルのこと

メトネルが1933年にパリで書いた「ラフマニノフ」という雑誌記事がある。これは作曲家ラフマニノフについて語りながら、その実、自分語りをしているのではないかと思われる貴重な文章である。

まず登場するのが「名声」についての辛辣な批評だ。
ラフマニノフ、名声ある人なのだが大丈夫かな…と思っていたら、早々に「ラフマニノフについて論じるのは、彼が著名であるがゆえに難しい」ときた。…やっぱりだ。

でも、そう書いた後で、「でもラフマニノフは本物だから」と必死に言い訳するメトネルの言葉を追いながら、本当にいい人なんだなと思う、これは心温まる文章なので “ニコライ・メトネルのこと” の続きを読む

イザイという響き

これまで、他の作曲家の伝記に登場している姿しか知らなかったウジェーヌ・イザイその人について、これまで一度も集中して調べたことがなかった。

イザイという名前は、旧約聖書を書いた一人とされる預言者の名前の連想からも、ヴァイオリン奏者として神格化されているその姿にとても似合っているように思っていた。しかし、イザイがパリで名を成すまでの足跡を追う中で、この名前がもうひとつ、19世紀末のパリにおいてある象徴的な響きをまとっていたのではないかと “イザイという響き” の続きを読む

裏返されたハ短調

シューマンはハ短調を書かなかった。
滅多に書かなかった、という以上に、書かなかった。

ベートーヴェンの死から2年後に、未完成となったピアノ四重奏曲を書こうとしたあとは、ショパンの死の年である1849年に「ミニョンのレクイエム」、人生最後の数年間でミサ曲をそれぞれハ短調で書いた。
それ以外に目立った作品はない。

シューマンは交響曲の年である1841年に、ハ短調の交響曲を書こうとして、 “裏返されたハ短調” の続きを読む

待ち続ける、シューベルト

1817年、シューベルトは自由になった。
自由になると同時に、作曲しかやることがなくなった。
自由を手に、思い立ったようにシューベルトはピアノソナタをたくさん書きはじめて、そのうちの少なくとも4曲を完成させた。そのころ、ベートーヴェンは「ハンマークラヴィーア・ソナタ」に取り掛かっていた。

生涯の友、ヨゼフ・シュパウンとフランツ・ショーバーは、自由になったシューベルトを我が作曲家として、援助を惜しまないだけでなく、重要な創作のパートナーにもなった。

2月シューベルトが画期的な歌曲「死と乙女」を書くと、その翌月にシュパウンは「若者と死」の詩を、ショーバーは「楽に寄す」の詩を続けて書き、シューベルトはその2つの詩に寄せる音楽を瞬く間に書いた。
いずれもこの世ではないところに連れ去られる歌であり、二人は “待ち続ける、シューベルト” の続きを読む