ダンテを読めない

「ダンテを読んで」と書こうと思ったが、読めなかった。

そもそも「ダンテを読んだ」ことのある人とは、誰のことだろうか。
バッハどころではなく長く忘れられていたダンテの『神曲』を19世紀の初めに読んだ人の代表はスタンダールとのことだ。
そのスタンダールにしても、ダンテのテキストそのものを読んだのか、ダンテについて書かれたものを読んだのかということが、なかなかはっきりしないらしい。
1803年、まだ20歳だったスタンダールは地獄篇の有名な「ウゴリーノ」のエピソードを自分で翻訳したいと思ったらしいが、 “ダンテを読めない” の続きを読む

シューマンの最終楽章

クラシック音楽に限らない話かもしれないけれど、作品の立ち位置が不安定だと、なかなかその作品は演奏されないし、よって聴かれる機会も少ない。
でも、立ち位置というのは今よりずっと以前から、いろんな人が果たしてきたことの上に定まって来たものであり、それなしにはいま不動の名作として君臨している楽曲でさえも、不安定で知られないままだったかも知れないと思う。

「知られざる作品」には、様々な可能性が秘められている。 “シューマンの最終楽章” の続きを読む

ヨアヒムの恋、シューマンの喪失

自由Frei しかしAber 孤独Einsam

このモットーがなぜヨーゼフ・ヨアヒムの所有となったのか。
そこから話を始めてみたい。

1849年、ゲヴァントハウス管弦楽団にいた18歳のヨアヒムは、4歳年上のギーゼラ・フォン・アルニムと出会った。ギーゼラはベートーヴェンとゲーテの間を行き来し、そのままロマン派の最深部に溶け込んでいた詩人、かのベッティーナ・フォン・アルニムの娘であった。
ギーゼラはすでにグリム兄弟・弟ヴィルヘルムの息子ヘルマンと約束のあった身であったらしいが、しかしヨアヒムは彼女にいつしか恋をしてしまったらしい。
1852年、Gisソ# – E – La という音型モチーフをあしらった手紙をギーセラに送った。それはいずれF.A.E.というモチーフに取って代わられることになる3音であった。 “ヨアヒムの恋、シューマンの喪失” の続きを読む

シューマンとブラームス 灰になったもの、あとに残されたもの

ロベルト・シューマンの最晩年の室内楽作品
1851年に書かれたヴァイオリンソナタ 第1番と第2番という2つの作品と、1853年に書かれたヴァイオリンソナタ 第3番との間には決定的な違いがある。
その原因は、言わずと知れたことだが、ブラームスとの邂逅がこの間に発生したことである。

すでに1850年にブラームスはシューマンに作品をみてもらおうとして失敗したらしいが、まだ最初のピアノソナタさえも作曲していなかったブラームスが何をシューマンに送りつけて、未開封で戻ってきたのかは不明だ。

1853年9月30日、ブラームスはヨアヒムの紹介状を持ってシューマンを訪れ、シューマンはようやく事の次第に気が付き、 “シューマンとブラームス 灰になったもの、あとに残されたもの” の続きを読む

ドヴォルザーク 大作曲家の道

ドヴォルザークは自分でそのように意識していたのかどうか、大作曲家として大成するとしか思えない道を歩んだ。

父はツィターの名手であり、叔父はトランペットの名手だったという、かの大バッハの出生を髣髴とさせる環境にドヴォルザークは生まれた。

そして、初めて手にした楽器がヴァイオリンであり、そのあとヴィオラも弾いたという事も、かの大バッハを髣髴とさせる、

リーマンという教会音楽の作曲もし、教会のオルガンも弾く教師からドイツ語を学ぶうちに、オルガンの奏法のみならず、和声学も学ぶことでカントルの伝統をなぞったことも、 “ドヴォルザーク 大作曲家の道” の続きを読む

マルティヌーのことを知らない

大作曲家マルティヌーの、その作品以外のことをほとんど知らない。
1923年から1940年までずっとパリにいたはずなのに、その初期に恩師アルベール・ルーセルから「私の栄光」と最大限に讃えられながら、彼はずっと作曲をしていたというが、しかし、その他のことがわからない。
ドビュッシーがいない、けれども最晩年のフォーレも、ラヴェルも、ストラヴィンスキーも、六人組もいたのに、彼は作曲以外に何をしていたのだろう?

パリに着いた1923年、マルティヌーはすぐにサッカーの大ファンになった。 “マルティヌーのことを知らない” の続きを読む

コダーイのセレナーデ

コダーイの人生について、語ることは簡単ではなさそうだ。

まず、コダーイの人生は彼一人のものではない。
コダーイについて語る時には、常に母国ハンガリーの歴史を引っ張って来てコダーイと一緒に歩かせなくてはいけないのだ。 … 目の前が真っ暗になる。

1900年、コダーイはリスト音楽院に入ると同時にブダペスト大学にも入学してそこで現代語を学んだ。
果たして、現代語とはなんであろうか…。
目の前が真っ暗になる。

ブダペスト大学にてコダーイは後に西欧マルクス主義の泰斗となるジェルジ・ルカーチ、 “コダーイのセレナーデ” の続きを読む

交響曲「ザ・グレート」

1839年の3月21日に交響曲「ザ・グレート」はフェリックス・メンデルスゾーン指揮のゲヴァントハウス管弦楽団によって初演された。
パート譜はシューマンが前年にウィーンから送り付けてきたシューベルトのページの順番が不揃いなままの自筆譜から、ただでさえ多忙のメンデルスゾーンが暗号を解くように並べて書き起こした。

シューマンはメンデルスゾーンとは別に出版社ブライトコプフにあてて、 “交響曲「ザ・グレート」” の続きを読む

「楽譜のこと」 シューマン:ピアノ四重奏曲 ハ短調


「シューマンの知られざるピアノ四重奏曲」

といって、どのような規模のものを想像するだろうか。自分は、例えばマーラーの四重奏断章のように、長くても20分くらいのものではないかと思っていた。そんな情報をどこかで見たような気もしていた。でも、楽譜が出版されているということを知って、調べてみるとなんと30分はかかりそうな規模の作品であることがわかった。そのような大規模な室内楽作品が、初期の、人によってはシューマン芸術の電圧が最も高かったとさえ表現するほどの、重要な時期に書かれていたというのである。

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