ハイドンとモーツァルトについて考えていた。
1781年の5月、モーツァルトはウィーンに移り住んだ。その年の12月に初演されたハイドンの新しい弦楽四重奏曲はこの二人の作曲家の距離を急激に近づけた。 “ハイドン、モーツァルト、もう一人の自分” の続きを読む
公演のプログラムノート
ハイドンとモーツァルトについて考えていた。
1781年の5月、モーツァルトはウィーンに移り住んだ。その年の12月に初演されたハイドンの新しい弦楽四重奏曲はこの二人の作曲家の距離を急激に近づけた。 “ハイドン、モーツァルト、もう一人の自分” の続きを読む
フェリックス・メンデルスゾーンの祖父は、カントと渡り合った哲人モーゼスであり、その祖父が学問において成し遂げたことを音楽でなさんとする中、38歳で死んでしまった。彼がもう少し生きていれば、変わったのは音楽の歴史ばかりではなかったことを思うと、気が遠くなってくる。 “メンデルスゾーン、ロマン派のはじまり” の続きを読む
“ Ja! ”
「『はい!』っていう返事がそんなに欲しい?」と18歳のクララは訊いた。
「だって、貴方の同意が必要だから」と28歳のロベルトは言った。
「じゃあ…『はい!』」と17歳のクララは簡単に返答した。
1837年8月、28歳のロベルトは有頂天になった。 “ダヴィッド同盟舞曲集” の続きを読む
1848年12月
革命の混乱を一段落させる形で、ハプスブルク最後の皇帝となったフランツ・ヨーゼフ1世が18歳にして皇帝に即位した、その1週間後にフランスで行われた大統領選挙で75%に迫る票を獲得して勝利したのがルイ・ナポレオン、その3年後のクーデターを経て皇帝に就任したナポレオン三世である。
1861年3月
ナポレオン三世の勅命によって、ワーグナーの「タンホイザー」が大改造後のパリで上演された。娯楽要素の少ない音楽劇の上演を妨害する笛や怒号がオペラ座に鳴り響く中、陶酔状態で舞台を見つめていたシャルル・ボードレールの姿があった。翌1862年、クロード・ドビュッシーが生まれた。 “ドビュッシーのいない世界。” の続きを読む
ウェルテル、と言った覚えはない。
実際、ブラームスは出版社ジムロックにこう書き送った。
「ピストルを押し付けた頭を楽譜の表紙にすればいい。この作品のイメージが湧くだろう?それに使う僕の写真を送るよ!もし色付けしたいと思ったら上着は青でズボンは黄色、乗馬靴を履かせるんだ。」 “ブラームスと、若きウェルテル” の続きを読む
ハンス・フォン・ビューローが最初にピアノを習ったのは、クララ・シューマンの父フリードリヒ・ヴィークであった。後にフランツ・リストに見いだされ、その娘コジマと結婚するが、その後色々あって…ブラームスの親友となった。 “R.シュトラウス、加速する世紀末” の続きを読む
夜がやってくる 月が光を帯びて
愛ゆえに 二つの鼓動が重なる
幸福な抱擁の時
…このような詩を、人は恋をしているときに書くのか。それとも、そこからは離れた場所で書くのか。
…どっちだろう。 “ブラームス、ピアノソナタ 第3番” の続きを読む
水の精は牧神に追われたシランクスを、水辺の葦として受け入れた
牧神はその葦を笛にして吹いている。
水の精エコーは、牧神によって引きちぎられ木霊となり、いつまでも繰り返し鳴り響いている。 “詩曲として、夜のガスパール” の続きを読む
なぜ月光なのだろう…
ずっと考えていた。 ターンタターン、ターンタターン ショスタコーヴィチがその語りつくせない人生の一番最後
ルイ・ヴィエルヌはギョーム・ルクーと同じ1870年の生まれ。
幼少より音楽の才能を示し、パリの盲学校に通う中で14歳の時にセザール・フランクに見出され、聴講生として彼の授業に参加しながら、ピアノとヴァイオリンそしてオルガン演奏の勉強を続けた。