ベートーヴェン、もう一人の自分

ルドルフ大公は1808年にベートーヴェンのピアノの生徒となった。
健康の問題で軍人にはならず僧職の道に進み、後にモーツァルトとの関係で有名なコロレド枢機卿のあとを継ぐことになる大公は、ピアノ演奏において相当の腕前であった。

ベートーヴェンは作曲をして手ごたえのあった作品の献呈先を、時々変更して人を驚かせることがあった。ト長調のピアノ協奏曲 第4番も、その例にもれず、別の貴族にあげると言っていたものを撤回して、ベートーヴェンは愛弟子であり最重要のパトロンともなったルドルフ大公に献呈した。

ベートーヴェンはあらゆる面で出来の良い愛弟子に、はじめからものすごい勢いでレッスンを与えたことは、ルドルフ大公の所蔵品の中に残された協奏曲のカデンツァの数からもわかる。第1番から第3番までのものが4点、第4番のためのものが全6点、そしてヴァイオリン協奏曲のピアノ版のためのものが4点…と、凄まじい。

ルドルフ大公に捧げた協奏曲第4番が、ベートーヴェンのコンサートピアニストとしての活動のほぼ最後となった。このあと、ベートーヴェンはルドルフ大公達が集めてくれた年金と、出版社との駆け引きの末の収入と、ピアノ教師としてのささやかなもの以外、演奏家としての収入はほぼなくなってしまった。

ナポレオンのウィーン占拠など、世の中の騒乱の中で他の収入が途絶えたときにも、ルドルフ大公はベートーヴェンにお金を送り続けた。ピアノ協奏曲 第5番を書いても、自分では弾くことの出来ないベートーヴェンに代わって、ルドルフ大公が初演を務めた。ルドルフ大公はベートーヴェンの手となり耳となった。

1812年、ベートーヴェンは作曲するばかりの人生にひとまず一段落をつけるべく第8番の交響曲と並んでト長調の第10番のヴァイオリンソナタを書いて、わが子を黙って見つめる眼差しのような親密さをたたえた、そのソナタをルドルフ大公に捧げた。

フランスのヴィルトゥオーゾ、ピエール・ロードの演奏に触発されて書かれた第10番のヴァイオリンソナタは、ピアノとヴァイオリンのどちらが先に行くでもなく、一つの人生を歩むように進んでいき、のちのベートーヴェンであればフーガにしたであろう旋律も、遁走する事なく解決する。

1812年にピエール・ロードのヴァイオリン、ルドルフ大公のピアノで初演されたこのソナタは、翌1813年に同じ組み合わせで再演され、その年末にルドルフ大公は痛風を患ってピアノを弾くことが出来なくなってしまった。

ベートーヴェンのピアニストのキャリアの最後となり、ルドルフ大公に捧げた第4ピアノ協奏曲と同じト長調で書かれた第10番のヴァイオリンソナタ。その2作品の間に流れる親愛の意味を読むうちに、今度はこのソナタがルドルフ大公のピアニストとしてのキャリアの最後を飾る作品となった。

ベートーヴェンは、手と耳を同時に失ってしまった。
このあと誰のために作曲すればよいのだろうか。
作曲家としてのベートーヴェンは、3年間の眠りについた。

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2018年12月15日(土) 20:00開演
「L.v.ベートーヴェン」

ヴァイオリン: 千々岩英一
ピアノ: 上野真

L.v.ベートーヴェン:
ヴァイオリンソナタ 第7番 ハ短調 Op.30-2
ヴァイオリンソナタ 第10番 ト長調 Op.96

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