なぜ、あの一度の人生があり得たのに、再び、もう一度あの人生があり得ないのか。
誰の教えを乞うこともなく、考えに考え抜いて、遠くに日が昇り始める頃に、すでに使い切った真っ白な頭で眠りにつく。
ノスタルジアは、それを経験した人にとっては、まさにそれが自分の人間であることに気づいた初めであったかのような感覚のことであり、孤独を生涯の友として歩き始めたことの記憶の全てなのだ。
1792年、前年に死んだモーツァルトの影を追うように、ハイドンがベートーヴェンをウィーンに連れて帰ってきた。ベートーヴェンが携えていた手帳には「ハイドンの手から、モーツァルトの精神を」というワルトシュタイン伯爵が書き付けた言葉が挟まっていた。
生きながらすでに伝説上の存在であったモーツァルトの通った道に沿って歩き始めたベートーヴェンの、表情がすでに内面に向いたものであったのは当然のことであった。
モーツァルトについて、ベートーヴェンが何も語らなかったというのは、どうしたことであろうか。全ての人に向けて、彼は語っていたのに。
「より良き世界にて、あなたたちが報われますように」
水を与えられたフロレスタンが、モーツァルトの調べにのせて歌い出す感謝の歌。
下を向いて、上を向いて、もう一度下、そして上。
この地上を認識するための大きな動作を繰り返したあと、はじめて前を向き、静かに歩き出すモーツァルト。ピアノソナタ K.279でモーツァルトは鍵盤上における画期的な一歩を、静かに踏み出した。
装飾がそのままにストーリーを語り始める。
リストとワーグナー、そして誰よりもショパンがその物語を引き継いだ。
ワーグナーは自らをモーツァルトの後継者としてヴァルキューレの1シーンに託した美的感性について語り、それが「ほとんど無視されてしまった」と嘆いた。
「モーツァルトは私心を抱かずに最も驚嘆すべきことを成し遂げ、後世の人々に対して途方もない宝を遺産として残したが、己の創造意欲の赴くままに行動することとは全く異なることをしたのだと彼は知らないのである。芸術史上、これほど感動的で人の心を高める出来事は他に挙げることが出来ない。」
(ワーグナー,1840)
なぜモーツァルトがいないのか。
装飾を前に、そこに自由の物語を読まない限りはきっと…
今一度カントの言葉を繰り返して、そこにある自由という言葉を「モーツァルト」に置き換えてみれば、私たちはまた朝まで考え通すことが出来るかも知れない。
内なる世界はそこから始まったのだから。
自由を直接的に意識することは、我々には不可能である。自由に関する概念が「経験に関りがない」という消極的なものだからである。また、自由を経験から推論することも出来ない。経験は現象の法則_すなわち自由とは正反対のものを認識させるだけだからである。
(カント「実践理性批判」)
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2018年6月7日(木) 20:00開演
「W.A.モーツァルト」
ピアノ: 松本和将
http://www.cafe-montage.com/prg/180607.html