「シューベルトの詩人」としてのみ知られている詩人、ヴィルヘルム・ミュラーはシューベルトより3年前に生まれ、シューベルトより1年前に死んだ。
ほとんど重なり合うように生涯を終えた、二つの若い魂が出会った最初が「美しき水車屋の娘」であった。
ドイツロマン派の詩をよくする人の中には、ミュラーの詩を決して文学の最高峰と認識しないがために、シューベルトがこれらの詩の上に最上の音楽をもたらした理由がまったくわからないという人が少なからずいる。
詩と音楽の関係においては、20世紀にもそのような例はあって、有名なエルトン・ジョンとバーニー・トーピンの関係においては、作曲をして何度も歌っていたエルトンでさえ、トーピンの歌詞は訳が分からないと言っていた。
ミュラーは英語が堪能でバイロンの著作を読み、多大な影響を受けていた。バイロンが身を投じていたギリシャ独立運動にも、バイロンのようにギリシャに赴くことはなかったが、自らを「ギリシャのミュラー」と名乗るなどして入れ込んでいた。
そんなミュラーの書いた「水車屋の娘」を単に「或る女」のように読んでいる楽曲解説なんかがあるけれども、それでは「ロケットマン」を本当に宇宙飛行士のことだと思ってしまうのと同じことではないだろうか。
「水車屋の娘」の8曲目「朝の挨拶」から10曲目「涙の雨」の間に凝縮された永遠の時間 ―シューマンからヴォルフ、ドビュッシーまでを包み込むような表現の飛躍をどう受け取って良いのか。その答えはやはりミュラーの詩が握っているのではないか。
果たせない思いは、果たされてはいけないのだ。
そうやって、シューベルトはいつまでも終わらないような音楽を書いていた。
しかし、歌曲においては言葉が終わるところが音楽の終わりなのである。
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2016年5月6日(金) 20:00開演
「美しき水車屋の娘」
テノール:松原 友
ピアノ:児嶋一江
http://www.cafe-montage.com/prg/160506.html