牧神の時代

留まりたいときに、いつまでもそこに居続けることのできるような時間を音楽の上 で見出すということは、ドビュッシーが音楽院にいる頃からの命題であった。

これまで通りの和声進行の中で人が期待する物語。
男と女が出会う、どこで?どうやって?そのあとは?とにかく出会う。出会わないと物語にならない、じゃないですか。…出会わない、出会うとも出会わないとも、そもそも男と女の定義からして、新しい物語でなければいけない。

人と人が、出会わない。そして、牧神が現れた。

音楽を聴く人が、その先の進行を予想することをやめさせるための、その方法のひとつとして全音音階の使用と、またひとつに鐘の音というものがあったのではないかというのが、「牧神の時代」のプログラムを組み立てるうえでの仮説であった。

鐘の音を聴くとき、人はそれを美しいと思いながら、その鐘の音がいかに進行、発展して、どのような結末を迎えるかということに期待することはなく、ただその響きに身を任せて、 その場にいたいだけ留まっている、その風景を音楽に取り入れること。

ドビュッシーはしかし、最終的にはドラマを、物語を書こうとした。それはそれまでの紋切り型の人の意識の流れに束縛 されない、さらなる自由を獲得したうえでそうしたかったのだ。人が来ない、何も発展しない中でしか語れ得ない物語をサミュエルベケットが書いたのはそれから数十年後のことである。

鳴り響く鐘の物語を、ドビュッシー自身ではなくラヴェルの作品を借りて語らせることで、ドビュッシーが表現しようとした自由のありかたを重ねたいと思った。ドビュッシーとラヴェルは、その時代において常に互いに裏表として存在して、自由の鐘を鳴らし続けた。それは、誰の所有でもないのだ。

ドビュッシーは死ぬ前に、衰弱で手紙も書けなくなった状況の中、自らの作品を静かに暖炉で、あるいは戦争の炎で、燃やし続けるような作品を書いた。それがピアノ曲「照らされた夜」。そこからはドビュッシーの代表作であるImagesからPreludes、そしてEtudesまでもが聴こえてくる。

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2016年10月22日(土) 20:00開演
「牧神の時代」 – C.ドビュッシー
ソプラノ:谷村由美子
ピアノ:塩見亮
http://www.cafe-montage.com/prg/161022.html