自由 しかし 孤独
このモットーがなぜヨーゼフ・ヨアヒムの所有となったのか。
そこから話を始めてみたい。
1849年、ゲヴァントハウス管弦楽団にいた18歳のヨアヒムは、4歳年上のギーゼラ・フォン・アルニムと出会った。ギーゼラはベートーヴェンとゲーテの間を行き来し、そのままロマン派の最深部に溶け込んでいた詩人、かのベッティーナ・フォン・アルニムの娘であった。
ギーゼラはすでにグリム兄弟・弟ヴィルヘルムの息子ヘルマンと約束のあった身であったらしいが、しかしヨアヒムは彼女にいつしか恋をしてしまったらしい。
1852年、Gis – E – La という音型モチーフをあしらった手紙をギーセラに送った。それはいずれF.A.E.というモチーフに取って代わられることになる3音であった。
1853年の10月28日、デュッセルドルフでヨアヒムが作曲した「ハムレット序曲」がシューマンの指揮で初演されることになっていた。ちょうどその時、シューマン宅を訪れたベッティーナと娘ギーゼラを交えて、ヨアヒムのモットーであるF-A-Eを主題にして3人でヴァイオリンソナタを作ろうではないかとシューマンは提案した。すでに10月15日にシューマンはその「思い付き」のことを日記にしたためている。
その3人、つまりアルベルト・ディートリヒが第1楽章を始めに書き、ロベルト・シューマンが第2楽章、ヨハネス・ブラームスが第3楽章をそれぞれあとから作曲していったというのは、ディートリヒの証言とそれぞれの楽章の関連から推測できる。
そのことについては、あとで譜例をもって説明したいが、話を続けよう。
さて、シューマンがさらに第4楽章を付け足し、表紙にF.A.E.と書かれた楽譜が首尾よく完成した。
1853年10月27日、ヨアヒムはデュッセルドルフの「ハムレット序曲」初演に間に合ったが、シューマン指揮の演奏会を聴いてがっかりしてしまったそうだ。シューマン自身もがっかりしてしまったのか、そのすぐあとの11月10日の演奏会を最後にデュッセルドルフの指揮台に立つことはなかった。
しかし、がっかりしたヨアヒムにはその翌日にサプライズが待っていた。
シューマン家に来てみると、ベッティーナが居間にいる…ということは、まさかギーゼラも来ているのか…と思う間もなく、「庭の花娘」の衣装をまとったギーゼラが登場して、手に持っていた「3人がヨアヒムを待ちわびる中で書かれたソナタ」の楽譜をヨアヒムに差し出した。
ピアノの方を見ると、やはりもうクララが座っている…。
ヨアヒムはあれよという間にヴァイオリンを片手にし、FAEソナタの初演を披露し、誰がどの楽章を作曲したのかというクイズにも当然のごとく正解したという。
一見すると「孤独、しかし、自由」とは程遠いF.A.E.ソナタの一夜からひと月もたたない11月21日、シューマンはヨアヒムに「おめでとう。君の『結婚交響曲』を聴きたいものだ」と書き送った。その翌週、シューマン夫妻はヨアヒムから分厚い封書を受け取った。
「おそらくそうだと思っていらした一件について、私はこの3つの小品をあなたにお届けしてその答えとさせていただきます。2曲目の最後に青く印をつけた3つの音が、そのモチーフです。」
同封されていたヴァイオリンとピアノのための3つの小品 op.5の2曲目は「夜の鐘」と題され、そこにはF-A-Eの3つの音符が並んでいた。
F.A.E.ソナタの一夜のあと、シューマンはヨアヒムと「庭の花娘」ギーゼラが婚約したと思ったらしい。
しかし、伝えられている情報の一つでは、全編ただただ陰鬱なこの「夜の鐘」という作品は3カ月ほど前のある夏の日に書かれたとされている。
つまり、「夜の鐘」のF-A-Eがソナタより数カ月以前に書かれていたとすれば、3人からのプレゼントを「庭の花娘」ギーゼラが手渡してくれたあの夜は、ヨアヒムにとって心の痛みを伴うものだったのではないだろうか。
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ここで、F.A.E.ソナタの各楽章の関連を簡単にまとめてみたい。
1853年10月15日にシューマンがソナタの共作を提案してから、おそらく最初に楽章を書き上げたのはディートリヒであった。
ディートリヒがこの大舞台に選んだ主題はシューマンがヴァイオリンソナタ 第2番に続けて書いたピアノ三重奏曲 第3番に出てくる旋律を思い出させるが、出来上がったのはシューマンのそれとはまったく違う、ワーグナー以降というべきか、どこか近代的な空気をまとっている。
シューマンが10月22日に書き上げた第2楽章は、ディートリヒの最後の楽章の最後部のF-A-Eをそのまま受け継いだ形で歌い始められる。
そして、ブラームスが作曲した第3楽章では、その第2主題がディートリヒの第1主題のまず変形として現れ、そのあとで写真のようにほぼそのままの形で再現される。
そのようなわけで、ディートリヒが先に第1楽章を書き、そのあとでシューマンとブラームスがおそらく同時に第2楽章と第3楽章を書いた、という時系列が推理される。
ところが、シューマンが第2楽章の翌日に書き上げたという第4楽章となると、上で書いたような第1楽章との繋がりを見つけることは出来ない。
F-A-Eの音型はピアノの最初の和音に含まれる程度で、はっきりと印象に残るようには取り扱われていない。
この楽章はなぜここにあるのだろうか。ここからはほぼ憶測となってしまうが、思いつくままに楽想を追ってみよう。
F.A.E.の第4楽章を一聴してまず思い出すのは、シューマンが1850年に作曲したチェロ協奏曲の第3楽章である。ヴァイオリンソナタ第1番と第2番を書く前の年に書かれたこの作品もF.A.E.と同じイ短調で、第3楽章 冒頭には偶然ながらF-A-Eが含まれている。
メンデルスゾーンの交響曲「スコットランド」と同じイ短調で書かれ、同じモチーフを持って開始されるチェロ協奏曲は、シューマンがデュッセルドルフの音楽監督に就任した直後に書かれたが、生前に演奏される機会はなかった。
1853年8月、ヨアヒムの弾くベートーヴェンの協奏曲を絶賛したシューマンはヨアヒムのために協奏曲を書くと約束した。
最初に、シューマンは全然演奏される気配のないチェロ協奏曲を編曲して、ヴァイオリン協奏曲だといってヨアヒムに渡した。ヨアヒムは演奏してくれなかった。
次にシューマンはヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲 op.131を作曲し、9月末には正真正銘のヴァイオリン協奏曲を書きはじめた。そこにブラームスがヨアヒムの招待状を持って現れた。
とんでもない若者の出現にも関わらず、シューマンは急いでヴァイオリン協奏曲を仕上げてパート譜を用意し、デュッセルドルフの10月27日定期演奏会で初演する準備を整えたがオーケストラの運営からOKがもらえず、その日は仕方なくベートーヴェンの協奏曲と幻想曲 op.131を演奏することになった。上でに書いたヨアヒム「ハムレット序曲」初演もこのコンサートでの出来事であった。ヨアヒムはがっかりしていた。
その翌日がF.A.E.ソナタの日であり、シューマンが久しぶりに書いた記事「新しい道」が雑誌に掲載された日でもあった。
シューマンはせっかく書き上げた二つの大協奏曲が演奏される機会のないことがそれほどに残念だったのか、F.A.E.ソナタの第4楽章にチェロ協奏曲に加えて、ヴァイオリン協奏曲の最終楽章のポロネーズさえも組み込んで、そちらはヨアヒムに演奏してもらうのに成功した。そのヨアヒムの演奏を聴いたことがまた火をつけたのか、シューマンはF.A.E.ソナタの翌29日に新たなイ短調の第1楽章、次いでスケルツォを31日に仕上げて、F.A.E.ソナタの第2楽章と第4楽章とを組み合わせて「ヴァイオリンソナタ 第3番」と言ってヨアヒムに渡した。
しかし、ヨアヒムは自由 しかし 孤独があしらわれた2つのソナタをもう演奏しようとはしなかった。
その理由が例の「夜の鐘」だと知ったシューマンは、せめてヴァイオリン協奏曲は演奏して欲しいとヨアヒムに頼んだが、ヨアヒムは翌1854年1月に協奏曲の弾き振りをしようとしてみたけれど、あまりに難しいのであきらめたとシューマンに手紙を書いた。
そのあとで、ヨアヒムは「夜の鐘」を含む3つの小品 op.5をギーゼラに献呈した。
シューマンは2月末にライン川に向かい、そのあとエンデニヒで治療を続けながらも2つの協奏曲を演奏するものがいないかと常に心にかけ、チェロ協奏曲だけはなんとか出版までこぎつけたものの、やはり誰も演奏しようとするものはなかった。
ベッティーナとギーゼラの母子は、そのあともシューマンとヨアヒムとの交流を続けていて、治療中のシューマンをエンデニヒに幾度か尋ね、そこを訪れようとしなかったクララに状況を報告していた。1855年、シューマンは「偉大なる詩人へ」という献辞とともに、思い出の1853年10月に書いた「暁の歌」をベッティーナに捧げた。
その年の末、エンデニヒのシューマンを訪れたギーゼラは出版されたばかりのメーリケ作「旅の日のモーツァルト」をシューマンにプレゼントした。それが最後の訪問となった。
1856年7月、クララはエンデニヒに呼ばれ、2年半ぶりに夫に会った。
ロベルト・シューマンの命日は1856年7月29日。
チェロ協奏曲の初演は1860年4月。
F.A.E.ソナタの初出版は1935年。
ヴァイオリン協奏曲の初演は1937年11月。
ヴァイオリンソナタ 第3番の初演は1956年、つまりシューマンの没後100年の3月のことであった。
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2022年6月8日(水) 20:00開演
「R.シューマン」 室内楽全集 VOL.4
《メルセデス・アンサンブル》
ヴァイオリン:上里はな子
ピアノ:島田彩乃