「シューマンの知られざるピアノ四重奏曲」
といって、どのような規模のものを想像するだろうか。自分は、例えばマーラーの四重奏断章のように、長くても20分くらいのものではないかと思っていた。そんな情報をどこかで見たような気もしていた。でも、楽譜が出版されているということを知って、調べてみるとなんと30分はかかりそうな規模の作品であることがわかった。そのような大規模な室内楽作品が、初期の、人によってはシューマン芸術の電圧が最も高かったとさえ表現するほどの、重要な時期に書かれていたというのである。
とはいえ、この作品には2種類の録音が存在していて、その片方では演奏時間が20分に満たない。これはどういうことなのだろう。
そもそも、若きシューマンが作曲したピアノ四重奏曲 ハ短調、この作品がどのようにして今ようやく日の目を見たのか ・・・
最初に発表されたのは1979年のこと。ハインリヒスホーフェン社から出版された、いわゆるベッティヒャー版である。
大指揮者アンドレ・プレヴィンによる名演として知られる録音があって、こちらを愛聴されていた方もいらっしゃるかもしれない。演奏時間は19分40秒。今回改めて聴いてみたけれど、素晴らしい演奏・・・!
そして、2005年に初演され、その後5年間におよぶ再編集を経て2010年にドイツのショット社から出版されたのが、今回の公演で演奏される版である。ベッティヒャー版で大幅にカットされた第1楽章が、自筆譜本来の大規模なものとなり、全体の演奏時間はおそらく30分を越える。
これは、ロマン派(特にメンデルスゾーン、ショパン、シューマン)の作品校訂における第一人者である、ヨアヒム・ドラハイム氏による加筆・補填版で、いわゆるドラハイム版と呼ばれるものである。
ドラハイムという人については、新シューマン全集やポーランドのショパン協会の重要な編集メンバーであり、これまでにシューマンのチェロ協奏曲の作曲者自身によるヴァイオリン版やバッハのチェロ組曲のシューマン版の編集出版などの多大な功績によって、シューマン賞をブレンデルとバレンボイムに挟まれる形で授与された権威であるということを、ウィキペディアで読んだ。
ショット社から出版された重量のある楽譜の冒頭には、ドラハイム氏の序文が掲載されている。かいつまんで羅列してみる。
1.今日まで一般に持たれてきた誤解、つまり「初期にピアノソロ作品にだけ焦点をあてていた、独学の天才」という、シューマンについての概念の誤りについて。
2.シューマンはピアノ四重奏曲 ハ短調を、自らピアノを担当してのリハーサルをしながら完成を目指していた。その際に即興で演奏していたと思われる未記入の部分について、補筆する必要があった。
3.残された自筆譜には、インクの染みや書き間違いなどが多くみられるが、判読可能な部分から全体を推定・構成することは十分可能な状態にあった。
4.かつて、この作品が出版されようとした際には(ベッティヒャー版のこと)単純な書き間違いとシューマン独特の不協和音の扱いとが混同されてしまったり、不必要なオクターブ和音の加筆がされたりということがあり、残念ながら信用に足る版としての基準を満たしておらず、広く普及しなかった。
5.今回出版される版については、例えば第1楽章の展開部の終結部の欠落(298-324小節)を再構成するにあたっては、この作品の構成のひな型となっているであろう作品、つまりフェルディナント卿やシューベルトの室内楽作品などを参考にするなどの方法をとるほか、ピアノの左手部分や弦パートの一部の欠落に関しても、現存している部分を参照することで補填が可能であり、特に困難が生じる作業はなかった。
6.一見風変りではあるが、シューマン独自の発明・開発と思われる和音やリズム、ダイナミクスについては、出来る限りそのままで残し、ごく単純な下記誤りについてのみ修正することに努めた。
・・・以上のようなことが書いてある。
さて、ここまでの情報をお読みいただいた方でも、実際に作品を聴くと、おそらく大きな驚きに出会うことになるだろうと思う。
このハ短調のピアノ四重奏曲は、その時代、シューマンがその気になりさえすれば、ロマン派の時代を消し去り、ワーグナーを経ずに世紀末の芸術に世界が移行していたかもしれないとさえ想像が及ぶような、大きな問題を提起している怪物的大作なのだから。
しかし、シューマンはロマン派の道を選んだ。
「みんな、帽子をとりたまえ」
そのときシューマンが選択した世界に私たちは生きている。でもそうではなかった方の世界については……
今まさにその入口のドアに手がかかっているところなのである。
・・・・・
2022年1月31日(月) & 2月1日(火)
「R.シューマン」 室内楽全集 VOL.2
– 2つのピアノ四重奏曲 –
ヴァイオリン:上里はな子
ヴィオラ:坂口弦太郎
チェロ:江口心一
ピアノ:島田彩乃