イザイという響き

これまで、他の作曲家の伝記に登場している姿しか知らなかったウジェーヌ・イザイその人について、これまで一度も集中して調べたことがなかった。

イザイという名前は、旧約聖書を書いた一人とされる預言者の名前の連想からも、ヴァイオリン奏者として神格化されているその姿にとても似合っているように思っていた。しかし、イザイがパリで名を成すまでの足跡を追う中で、この名前がもうひとつ、19世紀末のパリにおいてある象徴的な響きをまとっていたのではないかと思い始めている。

ひとまず、イザイがパリの楽壇に登場するまでの、その足跡を辿っていこう。

1870年、まだ12歳のイザイはリエージュのある地下室でヴァイオリンの練習をしていた。その音が、道を通りがかった大ヴァイオリニストのアンリ・ヴュータンの耳に届いた。その音の主を確かめたヴュータンは、ブリュッセルに彼を呼び寄せ、自分のアシスタントを務めていたヴィエニャフスキに少年イザイの教育を任せることにした。

1875年2月、ロシアの大ピアニスト、大教授であり大作曲家のアントン・ルビンシュタインはかねてよりパリオペラ座に委嘱され、作曲の最終段階に入っていたオペラ「皇帝ネロ」の打ち合わせのためにパリを訪れ、そのついでにアンリ・ヴュータンが主催した夜会を訪れた。
そこには17歳になったウジェーヌ・イザイがいた。
ヴュータンとその一番弟子のヴィエニャフスキの薫陶を正面から受け止めていた彼の演奏を、アントン・ルビンシュタインはその時初めて聴いた。

それから6年以上の月日が経った。
結局「皇帝ネロ」はパリでは演奏されなかった。

1881年の5月、アントン・ルビンシュタインはベルリンにいた。そこで開催されている食事つきコンサートで、イザイがオーケストラのトップを弾いているのを見つけた。イザイの食事付きコンサートでのキャリアがすでに3年目になると聞いたアントン・ルビンシュタインは、イザイを翌1882年の自分の北欧とロシアのツアーに同伴させ、自分の観客にソリストとして紹介した。

翌1883年、イザイはチューリッヒでフランツ・リストに会った。そして、のちにベルリン・フィルハーモニー管弦楽団となるはずの、しかし、その時は食事付きコンサートのオーケストラの仕事をやめた。
翌1884年、パリに移り住んだイザイは「トリスタンとイゾルデ」のパリ初演 (第1幕のみ) に触れて、並々ならぬ感動をうけた。
1885年にサンサーンスの指揮のコンセール・コロンでサン・サーンスやラロの作品を演奏し、その評判は聴衆にも広く伝わっていった。
1886年、イザイの結婚式に合わせて、セザール・フランクのヴァイオリンソナタが書かれた。

イザイは「トリスタンとイゾルデ」を聴いて「バッハやベートーヴェンからでさえ、これほどのインパクトをうけたことはない」とまで言ってしまったらしいのだが、その詳細を知りたくて調べているうちに「トリスタンの息子イザイ」という文言に行き当たった。

「トリスタンとイゾルデ」”Tristan et Yseut”の物語には、中世に書かれた外伝がふたつある。
ひとつはトリスタンとイゾルデの親の世代の物語。
もうひとつは「悲しみのイザイ」”Ysaÿe le Triste”という題名で、トリスタンとイゾルデが死ぬ少し前に生まれた彼らの息子イザイの物語らしいのだ。

すでに失われた言語で書かれたそれら二つの外伝は、まだ英語にさえ翻訳が成されていないために、どのような話の内容であるかが朧気にしか伝わっていない。

トリスタンという名前。古いアイルランド語の「騒々しい=元気に泣く、子」というもともとの意味に、ラテン語の「悲しい」という響きが加わることで、その有名な物語に奥行きが与えられている。

イゾルデにも、もともとの名前の意味に加えて、もしかしたら”預言者”の響きを加えることが出来るということなのだろうか。
自分にはまだそこまでのことはわからない。

19世紀末に「トリスタン」とイザイは、ほぼ同時にパリに姿を現した。

ワーグナーの音楽がフランスにもたらしたもの。
イザイのヴァイオリンがフランスにもたらしたもの。
音楽のみならず、香りの段階にまで達したその大きさについて、自分はまだまだ想像がついていないのかもしれないと思った。

 

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ヴァイオリン:会田莉凡
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