1817年、シューベルトは自由になった。
自由になると同時に、作曲しかやることがなくなった。
自由を手に、思い立ったようにシューベルトはピアノソナタをたくさん書きはじめて、そのうちの少なくとも4曲を完成させた。そのころ、ベートーヴェンは「ハンマークラヴィーア・ソナタ」に取り掛かっていた。
生涯の友、ヨゼフ・シュパウンとフランツ・ショーバーは、自由になったシューベルトを我が作曲家として、援助を惜しまないだけでなく、重要な創作のパートナーにもなった。
2月シューベルトが画期的な歌曲「死と乙女」を書くと、その翌月にシュパウンは「若者と死」の詩を、ショーバーは「楽に寄す」の詩を続けて書き、シューベルトはその2つの詩に寄せる音楽を瞬く間に書いた。
いずれもこの世ではないところに連れ去られる歌であり、二人はシューベルトの芸術との道連れを誓ったのであった。
1821年、シューベルトはオペラ作曲家となることを目指し「アルフォンソとエストレッラ」に取りかかった。ショーバーが台本を受け持ち、二人の共作体制が生まれた。
1822年、ショーバーと暮らしを共にしていたシューベルトは、「アルフォンソとエストレッラ」を書き上げた。このオペラがウィーンで上演される見込みはなかった。シューベルトは病に襲われた。
1823年、ショーバーは自ら役者となることを目指してブレスラウに旅立った。シューベルトの病はより深刻さを増した。
シュパウンもすでにシューベルトの傍にはいなかった。
シュパウンは「アルフォンソ」の年である1821年にウィーンを離れ、自身の故郷リンツに帰っていたのだった。
ショーバーはブレスラウで俳優業に専念し、時折その立場を利用してオペラ「アルフォンソとエストレッラ」を劇場に売り込もうとしていた。ドレスデン劇場にいた文豪ティークなどは興味を持ったらしいけれど、やはり上演は叶わなかった。
シューベルトは時々彼らに手紙を書いた。
1824年、なんとか体調を取り戻したシューベルトは、思い出深い「死と乙女」の前奏部分を使って、ひとつの弦楽四重奏曲を書き始めた。
翌1825年10月、ショーバーが2年ぶりにウィーンに戻ってきた。
年が明けて1826年、シューベルトは書き上げていた「死と乙女」の弦楽四重奏曲を取りだし、この作品は2月に初演を迎えた。
そして、4月にはシュパウンが5年ぶりにウィーンに戻ってくるという嬉しい知らせがあった。
こうして、かつての仲間たちとのシューベルティアーデが復活した。
その5月、問いと答えを永遠に繰り返すようなト長調の弦楽四重奏曲が、そして10月には、完全な自由と孤独を受け入れる宣言であるかのようなト長調のピアノソナタが書かれた。
シュパウンとショーバーと一緒であれば、そこがどのように名付けられた所だとしても、どこにでも行くことが出来る。
シューベルトの奇跡のような最後の2年が始まった。
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シューベルトの死から20年後の1848年、秘書としてフランツ・リストのもとにいたショーバーは、シューベルトの兄に手紙を書き、「アルフォンソとエストレッラ」をリストに宛てて送るようにといった。
1854年、リストの指揮によって「アルフォンソとエストレッラ」はワイマールの歌劇場で初演された。
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2021年5月27日(木) 19:30開演
F.シューベルト vol.19
ピアノ:佐藤卓史
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