フォーレとサンサーンス

ガブリエル・フォーレは16歳の時、音楽学校にピアノを教えに来た10歳年上のカミーユ・サンサーンスに出会った。「私の初めての歌曲は、料理の匂いが漂う音楽学校の食堂で書き上げられた…そして最初にその曲を弾いてくれたのはサンサーンスでした。」 生涯にわたる友情の始まりであった。

1872年、普仏戦争で傷ついたフランス、そして戦争で失った友等を偲ぶかのように、サンサーンスはチェロ協奏曲第1番とチェロソナタ第1番を続けて作曲し、それらの作品は後のフランス音楽の発展に重要な役割を果たすことになった。

サンサーンスが燃えるような情熱をもって作った2つの作品。チェロ協奏曲のその優雅な第2楽章はチャイコフスキーにも影響を与え、チェロソナタはラフマニノフのチェロソナタの雛形となり、ラフマニノフとショスタコーヴィチは古今東西のチェロ協奏曲の傑作として、まずこのサンサーンスの作品を挙げていた。

サンサーンスは愛国心の強い人で、自ら創設した国民音楽協会の中でもあまりにワーグナーの影響を受けすぎていると思われる作曲家を非難して、逆に自分が音楽協会を去ることになったり、ストラヴィンスキーの音楽を「非常識」、ドビュッシーの音楽を「残虐行為」とののしったりで、保守派のレッテルをほしいままにしていた。

第一次大戦がはじまると、今度はドイツの作曲家の音楽をパリで演奏しないことにしようと騒ぎ始めた。親友のいうことでもさすがにそれには賛同できないと、フォーレにまで署名を断られたサンサーンスは孤立を深めた。

1913年
78歳のサンサーンスは引退を決めて壮大な公演をパリで行った。
でも、そのすぐあとに起こった戦争の慰安演奏を求められると、矢も盾もたまらず、どんな激戦地にでも赴いて演奏をした。

1918年
第1次世界大戦が終結。フォーレはひとつのチェロソナタを書いた。怒りに燃えるようなニ短調の冒頭。かつてない大戦争で崩壊したヨーロッパ全体を駆けるような馬の蹄の音、そして心臓の鼓動が交互に現れ、サンサーンスが先の戦争の時に書いたチェロソナタの第1楽章の動機が重なる。

フォーレは国立音楽院の校長職にありながら、どのような政治的な運動にも寄与しようとせず、器楽作品に意味ありげな表題をつけることも全くなく、ただ音の流れの中に全ての意味を込め、いずれの作品の中にも強烈なメッセージを刻み込んでいた。

大地に向かって壮大な子守唄を歌い上げ、恩寵を得た故にひとり駆け続ける馬は、最後には光の中に消え去っていく。フォーレのチェロソナタ第1番は、戦争で傷ついた人たちのこれからを思い、サンサーンスが先の戦争で果たした役割に自らをなぞらえんとした作品である。

1921年11月
86歳になったサンサーンスはパリの大観衆の前で、彼の人生においていつもそうであったように、完璧な演奏を披露したあと、越冬のために暖かなアルジェに赴いた。

1921年の同じ時期
フォーレはフランス政府の依頼で吹奏楽のために書いたナポレオンのための「葬送歌」を、チェロとピアノの編成に書きなおして、作曲中であったチェロソナタ第2番の第2楽章に組み入れて11月末に完成させた。途轍もないスピードで一生を駆け抜けた、サンサーンスのプレストを祝福するかのようなフィナーレ。

1921年12月、サンサーンスは突然の心臓発作に見舞われて、アルジェで死んだ。

翌1922年
フォーレはフランス音楽のナポレオンに感謝の言葉を述べている。
「サンサーンスが絶えず励ましてくれたので、私は眠り込まずに済みました。全く彼のおかげで私は作曲をする気になれたのです。」

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‘17年1月10日(火)&11日(水) 20:00開演
「G.フォーレ 室内楽全集vol.3」~ チェロソナタ
チェロ:上森祥平
ピアノ:岸本雅美
http://www.cafe-montage.com/prg/17011011.html