プラトンの「饗宴」

いまさら読めない、プラトンの饗宴。
読んでみた

私たちの言葉は、ギリシャ以前には戻れない。
そして、その始まりの地点に私たちの言葉のほぼ全てがある。
そもそも、ギリシャとはなんであろうか。
話はそこから始めなくてはいけないのに、そこから始めると話が始まらないことに気が付いた。

史記を読んでみる。理解が出来ているかどうかはともかく読む…読んでいる?そのこと自体が少しおかしいと感じ始めると、もう自分が今の世の中に生きていることとか、実存とかなんとか、そもそも時間とはなんであろうかとか、色々とおかしくなって、最後には言葉を失うのである。

プラトンとかアリストテレスとか、文庫本を手にとり、そこに書いてあることをなんとなく頷きながら読んでいると、同じようなパラドックスに陥る。いま目の前に踊っている文字を書いた、お前は誰だ。…叫んだ瞬間に、言葉は記号となって、霧散してしまう。そのようにして、失われた言葉の集成。

アリストファネスが描く三種類の球体人間。
男男、男女、女女。
それらが思いあがって神々に挑戦した結果、6つに分けられて弱体化し、見かけとしては男と女の2種類となったというお話。

そもそも人間の欲望には個人的なものとそうでないものがあって、個人的なものは魂に、そうでないものは肉体に向かうと、パウサニアスはいう。

そもそも人間には病気なのとそうでないのとがいる、とエリュクシコマスはいう。

ソクラテス
全てディオティマからの伝聞という形で語られる、エロスの概念、富裕と貧窮の間に生まれたフィロソフォスの一人であるエロスが訴求する不滅の概念…そう適当に読んでいる中で「饗宴」のテキストの全てが伝聞の形式で書かれているという物語冒頭に立ち戻る。

全てがそれ以上にない洗練の形式ですでに記されている。この世に語られ、読まれるもののすべては引用であり、そうして伝えられた逸話を、伝えられた何らかの形式で読み、伝えられた方法で理解しようと努める、お前は誰だ。

そこに何が書かれているかということと、それがどのように読まれてきたかということ。その間において、永遠であるような時間は一瞬で消え去ってしまう。
唯一、自らが美しきものとして登場するアガトンが「饗宴」の時間を丸ごとのみ込んでしまうように。

美がすべてを圧倒する。完全な形式美 そして完全な空虚
アガトンにおいて全てが語られている。時間はそこで止まったままである。
いま、私たちは誰の声を聴いているのか。

バーンスタインは語る。
「30年前よりそれほど賢くなったわけではありません。知った事実は多いかもしれませんが、それ以上のことを忘れてしまっています。しかし私がいまも知っていることが一つあります。美は真実であり、真実は美である。これは依然として偉大な等式です。」(1975)

バーンスタインはプラトンの言葉を借りることなく、ひたすらにその形式を求めた。

「音楽が聴こえますか?」
彼は最後の誕生日を迎えたナディア・ブーランジェに尋ねた。
「いつも」と彼女は答えた。
「何を?モーツァルト?ラヴェル?」彼は再び尋ねた。

「音楽よ、始まりもなく、終わりもない」

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2018年4月18日(水) 20:00開演
「レナード・バーンスタイン」 ― 生誕100年
ヴァイオリン: 佐久間聡一
ピアノ: 鈴木華重子
http://www.cafe-montage.com/prg/180418.html