「インヴェンションとシンフォニア」は、もともとは『クラヴィーア手帳』に掲載されていて、そこでは「前奏曲と幻想曲」というタイトルが与えられていた。
その『クラヴィーア手帳』には「ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのための」という但し書きがしてある。つまりバッハの長男フリーデマンのチェンバロ学習のために編まれた曲集だということだ。
『クラヴィーア手帳』の冒頭には1720年と書かれている。その時フリーデマンまだ10歳!長男の英才教育のために編まれた60を超える作品の中には、のちに「平均律クラヴィーア曲集 第1巻」の前奏曲となる作品が10曲含まれていて、そのことからも「インヴェンションとシンフォニア」は「平均律 第1巻」とまさに同時期に書かれていたことが分かる。
『クラヴィーア手帳』ではそれぞれ15の「前奏曲」と15の「幻想曲」として、演奏技術の習得に便利な曲順(easy→difficult) で並べられていた作品が、1723年に「インヴェンションとシンフォニア」として成立した際には「平均律 第1巻」と同じく”ハ、ニ、ホ、へ、ト”の順番で並べられた。
これは演奏技術の習得という当初の目的から、より「演奏の効果」が上がる方向に向けたためと考えられるだろうか。バッハの言葉を借りると「格別の娯楽」”besonderem Zeitvertreib”(平均律 第1巻のバッハによるモットー)を得るための順番といえるのかも知れない。
そして、『クラヴィーア手帳』の中でもうひとつ注目なのは、15の「前奏曲」と15の「幻想曲」の間のページに、当時高名だった作曲家シュテルツェルによる組曲が掲載されていることである。
バッハとシュテルツェルの関係で一番有名なのは、長らくバッハの名作だと信じられていた歌曲”Bist du bei mir”「あなたがそばにいてくれたら」が、実はシュテルツェルのが作曲したオペラアリアだったという話。
このアリアは1725年にバッハの妻マグダレーナが編纂した『音楽帳』に掲載されていたのだが、すでに1720年の『クラヴィーア手帳』でその痕跡が見えるのである。
どういうことか? 説明しよう。
まずは『音楽帳』の変ホ長調の幻想曲、つまりシンフォニア 第4番の冒頭を見てみてほしい。
そして、こちらがマグダレーナの『音楽帳』のBist du bei mirである。
お気づきだろうか。
いずれも変ホ長調で書かれていて、音が一致しているというのは偶然とは思えない。どちらにも”シュテルツェル”がいるのだ。
いまでは台本も全て失われてしまったシュテルツェルのオペラ「ディオメデス」は1718年の初演。このアリアをバッハが遅くとも1725年には知っていたということはマグダレーナの『音楽帳』からはっきりしているのだが、おそらく『クラヴィーア手帳』を編んだ1720年には知っていたのだとすると、勝手な想像が膨らんでくる。
マグダレーナとバッハの結婚は1721年であるが、ケーテンの有名ソプラノ歌手であったマグダレーナとは遅くとも1717年には知り合っていて、バッハは若いマグダレーナの歌声でこのアリアを知ったかもしれない。やもめの父がそれを気に入って歌ううち、10歳の長男フリーデマンも「いてほしい」と口ずさむようになったのかも知れない。長男のための『クラヴィーア手帳』にその冒頭をあしらった曲を書き、その前に作曲家シュテルツェルの組曲を掲載して敬意を表したのかも知れないということを想像してみれば、人間としてのバッハがより近くに感じられるように思うのである。
ほぼ伝記が存在しないバッハという人間を、その作品から想像する機会があれば嬉しいと思う人がほかにもいればと、ここまで勝手な想像を書いた次第である。
調性の順番でインヴェンションとシンフォニアをあわせて演奏する。これはバッハが想定したより、さらに『平均律クラヴィーア曲集』に近づけることになる。つまり「前奏曲とフーガ」のように「インヴェンションとシンフォニア」として聴くこと、それはこの作品集が「演奏する人」のためであるよりも、さらに「聴く人」の感性に訴える形を備えていることを示すことになるのかも知れない。
「演奏する」が「聴く」に移行する、着想”Invention”が生まれ、交響”Sinfonia”となる瞬間。心を真っ新にして聴きたいと思う。
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2023年9月16日(土) 20:00開演
「インヴェンションとシンフォニア」- 300TH ANNIVERSARY
ピアノ:菊地裕介