バラードの年、荘厳ミサの年

ゲーテとシラーのいわゆる「バラードの年」といわれている1797年のこと。

21歳のアブラハム・メンデルスゾーンはみずからの銀行設立を決断してパリに向かった。その途中でイエナに立ち寄ったアブラハムは、友人ツェルターが彼に託していた歌曲集を詩人シラーに手渡した。
シラーがその楽譜をゲーテに見せたところ、ゲーテは興味をひかれたようであった。なぜなら、そのツェルターという作曲家から送られたゲーテ詩の12の歌曲の楽譜を、少し以前にゲーテは受け取っていたばかりであったからである。
ゲーテはシラーにアブラハムを紹介してもらい、ツェルターのいったい何者であるかを問うた。アブラハムは、ツェルターがファッシュが設立したベルリン・ジングアカデミーで共に演奏する仲であることや、ツェルターの作品をベルリンのザーラ・レヴィのサロンでいくつも聴いた事などをゲーテに伝え、よければ紹介しようと申し出た。

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一般に知られているところでは、まだ10歳を過ぎたばかりのフェリックス・メンデルスゾーンをゲーテに紹介したのがツェルターであり、フェリックスはそのお礼としてピアノ四重奏曲 第2番 ヘ短調 op.2をツェルターに献呈したのだとされている。しかし、ツェルターがゲーテと近づきになったのがアブラハムのとりなしが発端であったとなれば、、

焦る気持ちをおさえて、情報を整理してみたいと思う。

アブラハム・メンデルスゾーンがツェルターと知り合ったのはジングアカデミーもしくはザーラ・レヴィのサロンにおいてであった。
ザーラ・レヴィはフリーデマン・バッハのもとでチェンバロを学び、エマニュエル・バッハにチェンバロ協奏曲を委嘱して自ら演奏し、エマニュエル・バッハ亡き後の未亡人の世話をしたというベルリンの大文化人である。

アブラハムはようやく銀行の経営をはじめた1804年に、ザーラ・レヴィの姪であるレーア・ザロモンと結婚し、1805年にファニー・メンデルスゾーン、1809年にフェリックス・メンデルスゾーンが生まれた。

もう少し遡れば、レーア・ザロモンの祖父ダニエル・イツィッヒはプロイセンの大王フリードリヒニ世から宮廷ユダヤ人に指名された随一の銀行家であり、息子たちをモーゼス・メンデルスゾーン、娘たちをフリーデマン・バッハのもとに送り、啓蒙専制主義の実践として学ばせるなどして19世紀の文化サロンの礎を築いた。
フェリックス・メンデルスゾーンはそのひ孫なのである。

さて、ツェルターは1800年にファッシュが死んだあとのベルリン・ジングアカデミーを引き継いで音楽監督となった。
フェリックス・メンデルスゾーンがツェルターとともにゲーテを始めて訪れたのが1821年のこと。
フェリックス・メンデルスゾーンがピアノ四重奏曲 第2番を書いた1823年、ツェルターのもとにはベートーヴェンから手紙が届いた。
ベルリン・ジングアカデミーの音楽監督である高名なツェルターに、書いたばかりの「ミサ・ソレムニス」の予約特別頒布の購読者に名を連ねて欲しいとのことであった。
ツェルターは喜んで「ミサ・ソレムニス」の楽譜を予約注文した。
ベートーヴェンはさらにツェルターのジングアカデミーで演奏できるように「ミサ・ソレムニス」のアカペラバージョンを書くという提案もしたようだ。その後の顛末については、また調べてみたい。

ともかく、1823年はツェルターとフェリックス・メンデルスゾーンにとってそのような年であった。
フェリックス・メンデルスゾーンがピアノ四重奏曲 第2番にベートーヴェンの素材をたくさん取り込んでいたのが、ツェルターに献呈することを念頭に置いてのことかどうかはわからない。
 
 

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2023年8月22日(火) 20:00開演
「夏の四重奏」
MOZART&MENDELSSOHN

ヴァイオリン:瀬﨑明日香
ヴィオラ:小峰航一
チェロ:上森祥平
ピアノ:岸本雅美

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