ツェムリンスキー:弦楽四重奏曲 第2番

なぜこのような作品が誕生したのか。
この長大な作品を何度も繰り返し聴きながら考えていた。

この作品に関しても、作曲家ツェムリンスキーに関しても、読むことの出来る情報は驚くほど少ない。
シェーンベルクが「いずれ、おそらく私が考えるよりも早く、彼の時代が来る」と書いたように、ツェムリンスキーのリバイバルを目論んだ動きはこれまでにもあったらしい。
まずは生誕100年である1971年以降のこと。1960年代から沸き起こったマーラー・リバイバルの勢いが「彼の友人であるツェムリンスキー」にも波及した形で楽譜が出版され、1978年にG.フェッロ指揮による『抒情交響曲』とラサール弦楽四重奏団による弦楽四重奏曲 第2番 op.15の録音が出たことによって、その評価は定まったはずであった。そのレコードの裏には、解説の仕事を引き受けたもののツェムリンスキーの情報があまりにも少ないことを嘆く評論家の長文が掲載されていて、弦楽四重奏曲も第3番までしかないと書いてある。
実は第4番まであるのだ。
しかし、不確かと思われる情報の中で、面白いと思ったことがある。
それは、この第2番の作曲年が1911年であるという不確かな情報が存在したらしいという事だ。
実は、1913年からの2年間で作曲されたと今日では理解されている(自筆譜にそう書き込みがあるらしい)のだが、不確かな情報とはいえそれが1911年であるというのは興味深い。

ツェムリンスキーの弦楽四重奏曲 第2番は、バルトークや新ウィーン楽派の作品と並び、20世紀が生んだ屈指の名作であると誰にでも言われながら、ほとんど誰もその実演を聴いたことがないらしい不思議な作品である。
2017年に神戸市室内管弦楽団がオーケストラ編曲版を演奏するというので聴きに行った。素晴らしい作品だった。でも、実際、検索をしてみてもオリジナルの弦楽四重奏曲版がこの10年の間に日本で演奏された情報が見つからない。
(※追記:続報がございます → 「日本初演のお話」

しょうがないから、録音を色々と聴き比べていた。
そこに、1911年という数字が目の前に現れた。
その数字には、たとえその情報が誤りだとしても、意味があると感じた。
なぜなら、それはグスタフ・マーラーが死んだ年であるから。

マーラーがツェムリンスキーをウィーンの聴衆に紹介しようとしていたことは知られている。でも、1907年からアメリカに招聘されて度々ウィーンを留守にするようになってツェムリンスキーにそのあとを任せているうちに、マーラーほどの力を持つことが出来なかったツェムリンスキーは端に追いやられていった。1911年5月、マーラーは死に、ツェムリンスキーはその夏にウィーンを去り、9月にはプラハの歌劇場の音楽監督となり、1927年までそのままその位置にいた。

ツェムリンスキーがまだマーラーに出会う前のアルマに音楽を教えたことは良く知られている。自分にとってはツェムリンスキーの教えがほぼ全てであったとアルマは述懐している。そして、アルマとマーラーを引き合わせたのも、おそらくツェムリンスキーだったという事である。

ツェムリンスキーは1895年にシェーンベルクに出会ってその才能を見出し、ブラームス・マニアだったシェーンベルクに対して是非ワーグナーも聴くようにと説得し、自作オペラのピアノ編曲を任せたり、作曲や対位法の助言を与えたり、ウィーンの音楽家協会に紹介したりした。ちなみにツェムリンスキーは1896年に弦楽四重奏曲 第1番 イ長調を作曲しており、翌1897年にツェムリンスキーの助言によってシェーンベルクの弦楽四重奏曲 ニ長調が生まれ、その同じ年にグスタフ・マーラーがウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任した。
2年後の1899年、ツェムリンスキーとシェーンベルクは、休暇で保養地に来ていて、そこでデーメルの詩集『女と世界』に出会った。
早速というべきか、シェーンベルクは休暇についてきていたツェムリンスキーの妹マティルデに恋をした。そしてデーメルの詩集の中の一遍に基づいた弦楽六重奏曲『浄夜』を書いた。

シェーンベルクとマティルデは結婚した。
マーラーは、ツェムリンスキーとシェーンベルクを同時代の最重要作曲家とみなし、1904年にはツェムリンスキーが作った「創造的音楽家協会」の会長になった。

ツェムリンスキー様
一度お越しになって、うちでコーヒーなどお召し上がりになりませんか?
よろしければシェーンベルクもご一緒に。

(1905年のマーラー書簡より抜粋)

1905年、マーラーは前年に作曲しながらまだ演奏のされていない交響曲第6番のピアノ4手版の編曲をツェムリンスキーに託し、その編曲版はマーラーとツェムリンスキーの関係を象徴する記念碑となった。
そのあと、マーラーがアメリカに呼ばれてからの事は先に少し書いたが、1908年にはあの『ゲルストル事件』が起きた。
いまでこそ、ドイツ表現主義の祖として有名な画家ゲルストルは、当時シェーンベルクと同じアパートに住んでいた。シェーンベルクはその才能を認めていたものの、不遇のゲルストルはシェーンベルクの妻マティルデに甘えるようになり、なんとマティルデと一緒に駆け落ちしてしまった。
マティルデは正気に戻ってシェーンベルクの元に戻ったが、ゲルストルは帰らぬ人となってしまった。マーラーの不在に悩まされていたツェムリンスキーは、妹のしでかしたそれどころではない事件に打ちのめされた。

1911年、マーラーは死んだ。

もし弦楽四重奏曲 第2番がその年にプラハで書き始められたのだとすれば、ここには必ずマーラーがいる。
そう思ってこの作品に耳を傾けてみると、この作品の中心となるスケルツォに当たる部分で、交響曲 第6番の主題が聴こえてくるのだ。
では、「アルマの主題」もどこかにあるかも知れない。しかし、そう思ったときに聴こえてくるのは『浄夜』のモチーフなのである。
この作品(1915に完成)は、心象風景を描いた弦楽四重奏としてはシベリウス(1909)とエルガー(1918)の間にひく直線の上に位置している。
その祖は、ボロディンが妻に捧げたとされる弦楽四重奏曲 第2番 ニ長調(1881)である。ボロディン、シベリウス、エルガー、それぞれの作曲家と家族との関係についてはここでは割愛する。ツェムリンスキーの場合、事はおそらくもっと複雑であっただろうが、上に書いた以上のことは自分にはわからない。

ツェムリンスキーの弦楽四重奏曲 第2番に確かな主調は存在しないが、ボロディンの調つまりニ長調に向けてゆっくりと歩を進めていく。そこにツェムリンスキーが託したものはなんだったのだろうか。

この作品は、義弟アルノルト・シェーンベルクに捧げられた。
 

 


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2022年12月3日(土)&4日(日)
「ヴィルタス・クヮルテット」
メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲 第6番 op.80
ツェムリンスキー:弦楽四重奏曲 第2番 op.15
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