シューマンの「感謝の歌」

ベートーヴェンが弦楽四重奏曲 第15番を書いたのは1825年のこと。
その「感謝の歌」と題された第4楽章がある。
その題名の横には
「リディア旋法で」
と書かれている。

“in der lydischen Tonart”
イ短調の旋律は主である”イ音”(a) ではなく光射す “ヘ音”(F) へと向かう。

ベートーヴェンが教会旋法を使用したのは、前年の1824年に初演された「荘厳ミサ曲」でのドリアン旋法がおそらく最初とみられる。
バッハやヘンデル作品の出版が活発になり始めてから、ベートーヴェンは果てのない古楽探索に明け暮れていたが、さらに以前の音楽に興味を持った知識人の層というものが、当時すでに形成されていたのだという。

ウィーンでは、役人でありながら音楽史家としても活動していたラファエル・ゲオルグ・キーゼヴェッターによる「歴史愛好家のためのコンサート」が小規模ながら連続して開催されていて、ベートーヴェンもそこではじめてパレストリーナの作品などに触れたのであろうとされている。

「感謝の歌」”Dankgesang”という題名が、ラテン語の「聖なるかな」”Sanctus”(感謝の賛歌)に対応しているのかどうかはなんとも言えないところだけれど、試しにパレストリーナのミサ曲「永遠のキリストの恵み」からサンクトゥスを聴いてみる。

続いて、こちらがベートーヴェンの「感謝の歌」だ。


 

なんとなく、、気持ち的に重なる部分があるような気がしてこないだろうか。

さて、ベートーヴェンが「感謝の歌」を書いた2年後の9月、つまりベートーヴェンの死の半年後にフェリックス・メンデルスゾーンはハイデルベルク大学のアントン・フリードリヒ・ティボーを訪ねた。
ティボーは高名な法学者でありながら、E.T.A.ホフマンによる「パレストリーナこそ真の教会音楽」(『新旧の教会音楽』1814)という主張に共鳴して1825年に『音楽芸術の純粋』という本を書き、のちのセシリア運動(教会における16世紀音楽の復興)の礎を作ったような大人物である。
そのティボーのもとで、すでに「真夏の夜の夢 序曲」を書き、2年後には「マタイ受難曲」の蘇演を果たすフェリックス・メンデルスゾーンがどんな話を聞いたのかはわからない。ともかく、19世紀初頭の知識層の間でルネサンス期の音楽がすでに共有されていたという、ロマン派を観察する上でも大変に興味深い事実と、ベートーヴェンとメンデルスゾーンのパレストリーナ体験がほぼ同時期だという驚きをここに書いておきたいと思った。

ここで話は変わる。

1760年、つまりベートーヴェンより10年早くイタリアで生まれ、パレストリーナの古い伝統で育ち、1805年にウィーンに来た時にはすでに歌劇「メディア」などによる歌劇作曲家として名が通り、その新作をハイドンやベートーヴェンにも絶賛されたという伝説のルイジ・ケルビーニが、1836年になって急に3曲の弦楽四重奏曲を出版して、フェリックス・メンデルスゾーンを驚かせた。

メンデルスゾーンはベートーヴェンが「感謝の歌」を書いている時期に、すでにケルビーニに会っている。その時はパリ音楽院の学長となっていたケルビーニはフェリックスの法外な才能と、着ている服が高そうなことの両方にあきれ返り、自分の書いたコラールの主題を使った作曲の課題を16歳のフェリックスに次から次へと与えては「… 出来ないはずないか…」ということを繰り返していたらしい。

それからおよそ10年後に老ケルビーニが出版した弦楽四重奏曲を、メンデルスゾーンは親友ロベルト・シューマンにも見せて、その特殊な構造を一緒に研究しようとした。すでに作曲をやめ、得意の絵画に没頭して久しいと言われていたケルビーニの「新作」を見て、シューマンも大変に驚いたという。
その中で第2番とされているハ長調の弦楽四重奏曲は、もともとロンドンのフィルハーモニック協会のために作曲した交響曲だったのを室内楽にしたということなのだが、メンデルスゾーンはおそらくそこに注目した。
実は、メンデルスゾーンにもロンドンの同じ協会に依頼されて1834年に初演された交響曲があったのだ。
今では「イタリア」と呼ばれているその交響曲は、独占演奏権がロンドンの協会に握られていて楽譜もそちらに全て預けていたために、長い間、ドイツでは出版されず、自分でも演奏の出来ない状態であった。
まったく推測でしかないのだが、ケルビーニに触発されて1838年に書かれ、メンデルスゾーンの新古典と呼ばれることになる3曲セットの弦楽四重奏曲 op.44。その第1番には、この「イタリア」交響曲が部分的に移し替えられている。
第1楽章の冒頭でいきなり、ケルビーニ 第2番のアレグロ旋律が一瞬現れて、そしてメンデルスゾーン特有の、息を呑むようなスリリングな展開から「イタリア」に一気に引き込まれていく。

ケルビーニのルーツでもあるパレストリーナの音楽に、ロベルト・シューマンがどれだけ傾倒していたのかはわからない。でも、シューマンは何よりも「ホフマン主義者」であったことは周知のことであり、ホフマンからティボーに手渡された「純粋教会音楽」の概念をシューマンが知らなかったことはあり得ない。

メンデルスゾーンの3曲セットに続く弦楽四重奏曲を、シューマンも書こうとしたらしいが、すぐには成立せず、シューマンにはまず「歌の年」(1840)そして「交響曲の年」(1841)が訪れた。そのあと、シューマンも交響曲を室内楽に移そうとした可能性があるのだが、1842年のはじめの半年間、シューマンは何も書くことが出来なかった。
激烈な創作の2年間のあとで燃え尽きてしまったのか、クララが演奏旅行からなかなか戻ってこないことにも焦りを感じていたのか、4月にはそのクララに向けて「何も書けない。自分に何が起こっているのか、わからない」と手紙を書き送っている。

かつてベートーヴェンは自らの病の治癒を記念して「感謝の歌」を書いた。
シューマンが「何も書けない」という病から、どのようにして癒えることになったのかはわからない。
6月の始め、シューマンはようやく筆を取った。
そして、ベートーヴェンの「感謝の歌」と同じくイ短調(a)から、光射すヘ長調(F)に至る旋律展開、いわば「リディア」の流儀による美しいコラールを書いた。

ここで今一度、パレストリーナの、今度は「小ミサ曲」からのSanctusを聴いてみよう。



結局のところ、シューマンがここで”古代の旋律”を歌いはじめた理由はわからない。半年にわたる空白期間を経て、このように弦楽四重奏曲は幕を開け、シューマンの偉大な室内楽の年(1842)が始まった。




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2022年8月14日(日)&15日(月) 20:00開演
「シューマンを待ちながら」- 弦楽四重奏 #1

メルセデス・アンサンブル
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