クラシック音楽に限らない話かもしれないけれど、作品の立ち位置が不安定だと、なかなかその作品は演奏されないし、よって聴かれる機会も少ない。
でも、立ち位置というのは今よりずっと以前から、いろんな人が果たしてきたことの上に定まって来たものであり、それなしにはいま不動の名作として君臨している楽曲でさえも、不安定で知られないままだったかも知れないと思う。
「知られざる作品」には、様々な可能性が秘められている。
いまこうあるように見える世界の、そうではなかった場合の断面を想像すること。たとえば円周率は、そのものを見ることが絶対に出来ないのに、ある絶対的なものを成立させているから絶対的な数字であるとみるか、この世に絶対は存在しないというメタファーとしてみるのか、果たしてどちらが正解なのだろうか。
水の沸点が100であるというように、ためしに円周率を3と定めてみることが可能だとすると、世の中からは形というものが消え失せてしまう。全ての確かなものと不確かなものという区別もなくなってしまう。
さて、F.A.E.ソナタの立ち位置は、まだ定まっていない。
どこに定めるべきかというその比較として、このコンサートではシューマンのヴァイオリンソナタ 第1番がその前に置かれていた。その理由は、どちらもイ短調で書かれていて、どちらも序奏がない、ということくらいで、何らの確証があったわけではなかった。
でも、不思議なもので、一度その順番で演奏会が成立してしまうと、そこにはなにかしらの必然が見えてくる。これは「知られざる作品」をその場にいて聴くことの醍醐味のひとつだ。
実際の体験とは時系列がずれてしまうのだけれど、一番に感じたことは、ブラームスのスケルツォつまり第3楽章が終わった時に、そこに拍手が起こりそうな気配が会場にあったことだ。
つまり、このF.A.E.ソナタが3楽章形式の作品として成立する可能性をそこにみたということでもあり、最終楽章に込められたものを体現する前に完全な終止符がその前に置かれていることで、それは例えばチャイコフスキーの悲愴交響曲のような構成をそこに想像できるという事でもある。
短調で開始されたソナタが長調(この場合はハ長調)で終始された時点で、それがひとつの結論に達していると感じるのは、シューマンのピアノ三重奏曲で同じことを経験したからかもしれないし、その逆、つまり長調が短調で終わるメンデルスゾーンのイタリア交響曲や、F.A.E.の直後に書かれ始めたブラームスのピアノ三重奏曲 第1番の記憶であるのかも知れない。
ともかく、F.A.E.ソナタをシューマンのヴァイオリンソナタ 第1番と同じ3楽章形式として感じたもうひとつの理由は、ブラームスが第1楽章の亡霊をスケルツォの中に登場させるやり方が、シューマンがヴァイオリンソナタ 第1番の最終楽章で出した第1楽章の亡霊となんとなく似ているのではないかと思ったことだ。
考えを整理するためについ仮定をしてしまうのだけれど、このF.A.E.ソナタの計画を始めに聴いたときに、ブラームスは自分がフィナーレを書くのだと思ってしまっていたのだとすると、どうだろうか。
つまり、「3人でそれぞれに楽章を書いてソナタにする」と聞いた時点で、「なるほど、シューマン先生のヴァイオリンソナタ 第1番のように、イ短調で、3楽章形式の…」とブラームスが早合点をし、スケルツォとフィナーレを含む壮大な第3楽章を書き上げて、シューマン先生に見せたところ「なるほど、このあとに私の第4楽章がくるというわけか。これは痛快だ!」という先生の言葉に「なん、だと…!?」と思いながら、その言葉を必死で抑えたブラームスを想像してみると、ディートリヒの真面目そうな眼差しが笑いをこらえている様子まで見えてきて、とても興味深い場面に遭遇することが出来ると思うのだ。
そもそも、おそらくシューマンはこの第4楽章をヨアヒムに演奏してもらうために、あえて自分でソナタを書くのではなく、共作によるプレゼントという形にしたのではないかというのが、先に書いたプログラムノートでの憶測であった。憶測ばかりで申し訳ないけれど、話を続けよう。
さて、たいそうなプレゼントを「庭の花娘」から受け取ったヨアヒムは、初見にもかかわらず当然そのソナタを演奏したのであるが、第3楽章のブラームスの堂々たるコーダを弾き終えたあとで、演奏が終わったと思ったベッティーナがつい拍手をしてしまい、ヨアヒムも満足げにお辞儀をした… と想像してみよう。
シューマンが焦って部屋を振り返ると、そこには首を縦に振って大きくうなずくブラームスがいる。
シューマンは気を売り絞って「そのページを、もう少しめくってみる気があったりしませんか?」と、つぶやくように言った。
何かメッセージ書いてあるのかな?と思ってヨアヒムがページをめくって見ると、そこには「フィナーレ」という文字に続いて、たくさんの音符が並んでいる。
「おや、もう一楽章あるのですか?」
やれやれというヨアヒムの仕草をみて頭が真っ白になったシューマンは
「ええ、それが最後の楽章です」と、心配そうに顔を覗き込んでくるディートリヒにしか聞こえないような声でつぶやいた。
クララはその空気に耐え切れず、フィナーレの文字に続いて書かれたフォルテの和音を叩いた。ヨアヒムはつられて演奏を続けた。
・・・・・
妄想ばかりを書いてしまったが、結局その場で何があったのかは分からない。分かっているのは、F.A.E.ソナタ初演の翌日から二日後前の間に、シューマンが新しい第1楽章とスケルツォを書きあげて、F.A.E.ソナタのインテルメッツォと第4楽章を組み合わせた「ヴァイオリンソナタ 第3番」を書き上げたこと。
その第3番の完成の翌日、ブラームスはデュッセルドルフの滞在中ずっと書き続けていたヘ短調の「ピアノソナタ 第3番」を完成させて、シューマン夫妻の前で全楽章を披露して、デュッセルドルフを後にした。
ブラームスのスケルツォの冒頭、シューマンの書いたばかりの新しいスケルツォの開始をなぞってそのままメンデルスゾーンのハ短調トリオのフィナーレに繋がるような音楽を聴いたシューマンが、何を思ったのか。
それもわからない。
・・・・
結局、シューマンが書いたF.A.Eソナタのために書いた第4楽章は、本当の意味でのフィナーレとなってしまった。
そのフィナーレを永遠のものとするためだけでなく、「ヴァイオリンソナタ 第3番」の存在、その立ち位置をこれからの体験で発見することが出来ればと思う。
そこにはシューマンが書いた紛れもない傑作、全4楽章の「ヴァイオリンソナタ 第2番」が置かれている。見たことのない風景、それが、また未来に戻ってきたくなる風景であれば、そこでシューマンの訪れをずっと待っていたいと思う。
・・・・・・
2022年6月9日(木) 20:00開演
「R.シューマン」 室内楽全集 VOL.5
《メルセデス・アンサンブル》
ヴァイオリン:上里はな子
ピアノ:島田彩乃