シューマンとブラームス 灰になったもの、あとに残されたもの

ロベルト・シューマンの最晩年の室内楽作品
1851年に書かれたヴァイオリンソナタ 第1番と第2番という2つの作品と、1853年に書かれたヴァイオリンソナタ 第3番との間には決定的な違いがある。
その原因は、言わずと知れたことだが、ブラームスとの邂逅がこの間に発生したことである。

すでに1850年にブラームスはシューマンに作品をみてもらおうとして失敗したらしいが、まだ最初のピアノソナタさえも作曲していなかったブラームスが何をシューマンに送りつけて、未開封で戻ってきたのかは不明だ。

1853年9月30日、ブラームスはヨアヒムの紹介状を持ってシューマンを訪れ、シューマンはようやく事の次第に気が付き、『新しい道』を急いで書いて、その月末の「新音楽時報」に急遽掲載する手はずを整え、ヨアヒムがデュッセルドルフに来る前にと弟子のディートリヒと会ったばかりのブラームスにヴァイオリンソナタの共作を申し出て、出来上がった全4楽章のソナタを、デュッセルドルフに来たばかりのヨアヒムに演奏させて、「さて、誰がどの楽章を書いたでしょう?」などとクイズを出し、ヨアヒムは全問正解し、その翌日にシューマンは楽章を書き足して、自身のヴァイオリンソナタ 第3番を数日で完成させたのが11月1日であった。

ブラームスも横で同じイ短調のヴァイオリンソナタを書いてライプツィヒの出版社に送ったそうだが、結局出版には至らなかった。そこで続いてピアノ三重奏曲を書き始め、年をまたいで1854年1月に完成させた。
そして、これも言わずと知れたことだが、それから2カ月も経たないうちにシューマンはライン川へと向かった。

後年、1889年になって出版社のジムロックが思い出のピアノ三重奏曲の楽譜をブラームスに送りつけて、出版したいから校訂して欲しいと言ってきた。
当時、強力なインフルエンザがパンデミックしていて、ブラームスは身の危険を感じていたとのこと。遺品整理と称して、残しておきたくないと思うプライベートな手紙や未出版の楽譜を大量に焼却した。

遠い過去の事、ブラームスはオシアン(スコットランドの伝説的詩人)に耽溺し、同じ1854年に書いた「4つのバラード集」にもその影響が色濃くあるとされているが、それはおそらくピアノ三重奏曲でも同じことが言えるようだ。
しかし、1889年改定の際、ブラームスはこの作品全体のモチーフになっているイギリス民謡風の主題(18世紀から広く知られている“Early one morning”を思わせる)を消去し、ほの暗い下降旋律を代わりに据えて、作品を全体に書きかえてしまった。

〈第1楽章の第2主題〉初稿では明るい上昇旋律だったのが、ほの暗い下降旋律に…

ブラームスは、若き日に書いた作品のほぼ全てを燃やしてしまい、最晩年のシューマンと机を並べて書いたヴァイオリンソナタも灰になってしまったけれど、ピアノ三重奏曲は幸運なことに1854年に出版されていたので、現在でもそのままの形で演奏することが出来る。
消去された、もしくは新たに想起された思い出を、シューマンのヴァイオリンソナタ 第3番の手前に一度置いてみたいと思い、ブラームスの1889改訂版が今回「シューマンを待ちながら」のプログラムに組み込まれることとなった。

 

 

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2022年5月21日(土) 20:00開演
「シューマンを待ちながら」
メルセデス・アンサンブル
https://www.cafe-montage.com/prg2/220521.html