サミュエル・ベケットはある小説を書こうとしていた。
それは、表現の「対象」も「手段」も「欲求」もなく、「表現の義務」のみが存在する小説。
登場人物は、そこで発生する何かを体現する。もしくはそこで何かを発生させる。もしくは、何かを叶えたいと願っている。
生きている人間は、そこで発生する何かのために、いつもそこにいるわけではない。そこで何かを発生させるためにいるのでもない。何かを叶えたいと強く願っているわけでもない。人間は存在し、何のためとは自ら知らずとも、そこにいる。
芸術がリアリズムを超え、その芸術を現実が超えてしまった戦後、「ゴドーを待ちながら」は書かれた。
小説を書く前段階として書かれたこの戯曲が、やがてセンセーションを呼び起こすこととなった。まず、この戯曲が何を意味しているのかについての議論。次に、この戯曲を体験することの意義についての議論。そして、この戯曲が切り開いた世界を、どのように拡張して未来につなげることができるのかという議論。それらの議論が全てむなしく吹き去った後、「ゴドーを待ちながら」は「語りえない本質」という語りえない本質をひとり代表する不朽の名作としてそこに立ち、何かを待っていた。
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ロベルト・シューマンはまだ来ない。
シューマンが第1番のピアノ三重奏曲 op.63を書いて、そのすぐ後に第2番となるピアノ三重奏曲を書きながら、なぜそれをop.80として第1番から遠いところに置こうとしたのか。それはわからない。
第2番のピアノ三重奏曲は、3曲あるシューマンのピアノ三重奏曲の中では、おそらく一番マイナーな作品だ。そして、3曲の中で唯一はっきりとしたモットーが掲げられた作品でもある。
あなたの姿を私は、
とても幸せな気持ちで
心の奥底にしまっている
これは歌曲集「リーダークライス」の中で、シューマンが「間奏曲」と題したアイヒェンドルフの詩の一節である。シューマンはこの歌曲のメロディをピアノ三重奏曲 第2番の中で幾度も繰り返している。
「あなたの姿」とはだれの姿なのか。
作曲をすすめていた1847年の10月、一度目の卒中に見舞われていた朋友メンデルスゾーンの姿か、もしくは先月に書いた第1番のピアノ三重奏を捧げたばかりのクララなのか、やっぱりそうなのか…。
10月25日、シューマンのピアノ三重奏曲 第2番は完成した。その3日後の28日、メンデルスゾーンは二度目の卒中に見舞われ、話すことができなくなり、さらに数日後の三度目の卒中の翌日、1847年11月4日に永眠した。
翌1848年、ロベルト・シューマンは「子供のためのアルバム」というピアノ曲集を書いた。その中に「思い出 」という小さな曲がある。
そこには題名と共に「1847年11月4日」という日付があり、さらに「フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディの思い出に」と記されている。
「間奏曲」そして「思い出」をここに並べておくので、それぞれ初めの少しだけでも聴いてみて欲しい。
「リーダークライス」op.39の「間奏曲」
「子供のためのアルバム」op.68の「思い出」
実にひっそりと、シューマンは思いを綴っていた。
ピアノ三重奏曲 第2番は、クララに捧げた第1番 op.63とは別に、メンデルスゾーンの最後の作品となった弦楽四重奏曲 第6番と同じ「op.80」として出版された。
「間奏曲」op.39-2
あなたの姿を私は、
とても幸せな気持ちで
心の奥底にしまっている
その姿は、とても生き生きと楽しげに
いつも私を見つめていてくれる
私の心は静かに歌う、昔の美しい歌を
歌声は、空に舞い上がって
あなたのところへと導かれていく
Joseph von Eichendorff
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2022年1月13日(木) & 14日(金)
「R.シューマン」 室内楽全集 VOL.1
– 3つのピアノ三重奏曲 –
ヴァイオリン:上里はな子
チェロ:江口心一
ピアノ:島田彩乃