シューマンはハ短調を書かなかった。
滅多に書かなかった、という以上に、書かなかった。
ベートーヴェンの死から2年後に、未完成となったピアノ四重奏曲を書こうとしたあとは、ショパンの死の年である1849年に「ミニョンのレクイエム」、人生最後の数年間でミサ曲をそれぞれハ短調で書いた。
それ以外に目立った作品はない。
シューマンは交響曲の年である1841年に、ハ短調の交響曲を書こうとして、たったの2日であきらめたことがある。
最終的にシューマンは変ロ長調で「春」の交響曲を書いたのだが、この時期にベートーヴェンのハ短調を研究していたことが、翌1842年に作曲されたピアノ四重奏曲にもあらわれている。
そのピアノ四重奏曲はハ短調の裏返しである変ホ長調で書かれた。
そこにはベートーヴェンの二つのハ短調ソナタが登場する。
第1楽章にはベートーヴェンの悲愴ソナタとバッハのイタリア協奏曲の関係が透かし彫りで刻まれ、最終楽章は冒頭にベートーヴェンの最後のピアノソナタの第1楽章の第1主題が、やはり裏返しの形で登場しフーガを形成する。
ロマン派はハ短調を書かなかった。
滅多に書かなかった、という以上に、滅多に書かなかった。
メンデルスゾーンはベートーヴェンが生きているときにはまだハ短調の作品を書いていたが、それ以降は自らの死の前年のピアノ三重奏曲まで書かなかった。その同じ年に、シューマンは交響曲第2番の第3楽章をハ短調で書いている。
ショパンは練習曲集と前奏曲集の中でそれぞれ1曲ずつ、そして夜想曲 op.48-1をハ短調で書いた。
その夜想曲が作曲されたのは、先ほど書いたシューマンのハ短調の交響曲が2日間でとん挫したのと同じ1841年であった。
リストは超絶技巧練習曲集に1曲、そのほかには目立ったハ短調の作品はない。
時代の一つのうねり、そこで彼らが共有していた空気は、こうしてハ短調を軸にすることでも観察できる。
そのうねりはブラームスを直撃した。彼は最初の交響曲が完成するまで、何年にもわたってハ短調を書き続けた。
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ヴィオラ:前山杏
チェロ:上森祥平
ピアノ:岸本雅美