3つの、2つの、バースデープレゼント

ルイジ・ケルビーニというのはベートーヴェンより10歳年上のイタリアの作曲家。この9月14日に生誕260年を迎えるが、そのことはおそらく誰も話題にしていない。

ケルビーニは1816年、つまりベートーヴェンの後期といわれる時期がようやく始まった頃に「レクイエム」を書き、それは当代随一の傑作として高く評価された。1822年、パリ音楽院の学長になったケルビーニが翌年に新入生として入学してきたベルリオーズを叱り飛ばした話が、ベルリオーズの自伝に面白おかしく描かれている。

ロッシーニの登場によって作曲家としてはもう過去の人になっていたケルビーニではあったが、1836年になって急に6曲の弦楽四重奏曲を出版して、人々を驚かせた。その驚いた人々の中には、いつもながら早耳のフェリックス・メンデルスゾーンがいて、彼はすぐにそれらをロベルト・シューマンに見せて、一緒にあらためて驚いてみせたあと、早速3曲の新しい弦楽四重奏曲を書いた。

シューマンも同じころに書き始めてみたものの、なかなか完成せず、クララの父と戦ったり、クララと結婚したり、こんな傑作ばかりどうやって書いたかというほどのたくさんの歌曲を作曲したりする間に、月日は過ぎた。

1842年の3月、ケルビーニは死んだ。ついでに書けば、その1週間前にはモーツァルトの未亡人コンスタンツェが死んでいた。

まだ「新音楽時報」の主筆を務めていたシューマンがどちらの死についても知らないはずがなく、果たしてどちらの死に触発されたのかは不明ながら、同じ年の7月に3曲の弦楽四重奏曲を完成させた。

第1番はイ短調。冒頭から、どこからひっぱり出されてきたか不明の、霊妙極まる世界線を何本も同時になぞっていくような革命的な作品。
第4楽章の展開部であきらかな「ジュピター音型」が2度登場した後、なぜかバッハの無伴奏チェロ組曲 第6番ガヴォットの思わせるバグパイプの情景が現れる。
無伴奏チェロ組曲については、のちにピアノ伴奏の作曲に挑戦するシューマンではあるが、もうこの時には入手していたのであろうか…。

ともあれ、1842年7月にシューマンの3曲の弦楽四重奏曲は完成した。やがて演奏譜が出来上がり、9月8日にフェルディナント・ダヴィッド率いる四重奏団によるリハーサルが始まってから、とにかくシューマンは事を急いだ。なぜならクララの誕生日である9月13日がすぐそこに迫っていたからである。

1842年9月13日、なんと5日間のリハーサルで全曲を仕上げた四重奏団によって、全3曲がクララの前で演奏された。クララは大変に喜んだ。

「9月13日、喜びと享楽で満たされた1日。私のロベルトはたくさんのサプライズを用意してくれたけれど、その中でも1番は3曲の弦楽四重奏曲だった…私のために、なんという大きな歓喜がもたらされたことか!」

そして、スイスに行っていたフェリックス・メンデルスゾーンがライプツィヒに帰ってきたので、待ちに待っていたシューマンはすぐにまた準備をして、ダヴィッド四重奏団は9月29日に今度はメンデルスゾーンの前で全曲を演奏した。メンデルスゾーンは大変に感銘を受けて、いつものようにロベルトに言った。

「私がどれだけこれらの作品を気に入ったか、とても言い表せないほどだよ。」

その年の12月、シューマンは3つの弦楽四重奏の校訂譜を手に、やはりことを急いでいた。校訂譜を受け取って印刷の行程にまわしたブライトコップフ社は何度もシューマンから「必ず間に合わせるように!」と急き立てる知らせを受け取った。

年が明けて、シューマンはやっとのことで初版のサンプルをブライトコップフ社から受け取り、「2月3日に寄せて / あなたの / R.シューマン」とメンデルスゾーンにあてて送った。1843年2月3日、それはフェリックス・メンデルスゾーンの34歳の誕生日であった。





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エンヴェロープ弦楽四重奏団 第6回公演
2020年9月12日(土) 20時開演
https://www.cafe-montage.com/prg/beethoven4.html