悲愴ソナタ バガテルする晩年

ブラウン男爵が、ベートーヴェンの前に立ちはだかっていた。

ブラウン男爵は絹産業で財を成し、オーストリア随一の富豪として宮廷で重宝され、1794年にブルク劇場とケルントナートーア劇場の支配人となったあと、宮廷銀行の一員にもなっていた。

ブラウン男爵にはジョゼフィーネという奥さんがいた。
ブラウン男爵は奥さんがピアノが上手なのを自慢にしていた。
ベートーヴェンは、その奥さんに作品を献呈することで、何か便宜が図られるものと思っていたらしい。1799年、ベートーヴェンはブラウン男爵の奥さんに2つのピアノソナタ op.14を捧げた。しかし、ブラウン男爵は簡単には懐柔されなかった。

1800年のブルク劇場でのデビュー演奏会の大成功の後で徐々に作曲を進め、翌年にブラン男爵の奥さんにホルンソナタ op.17を献呈し、翌1802年、だんだんに耳が悪くなっていく中で、ようやく完成させた交響曲第2番を4月に初演したいと申請したが、ブラウン男爵は劇場の使用を許さなかった。

その年の10月、ベートーヴェンは医師シュミットの助言で、耳を休めるためにハイリゲンシュタットにこもって、3つのヴァイオリンソナタ op.30や3つのピアノソナタ op.31を書き、「リヒノフスキー侯爵に感謝」などと書いた遺書を作成したり、結局忙しい日々を過ごした後、ベートーヴェンの頭はまたウィーンの劇場に向いた。

翌1803年、ベートーヴェンの念願だった交響曲第2番の初演は、シカネーダーの新しい劇場であるアン・デア・ウィーン劇場で行われた。その流れでベートーヴェンはその劇場のためにオペラを書こうということになった。
しかし翌1804年にシカネーダーが失脚、代わりの支配人として現われたのが、誰あろう、ブラウン男爵であった。

ベートーヴェンのオペラが紆余曲折を経て、現在の「フィデリオ」として完成するのは10年後の事であるが、その話はここではしない。

ブラウン男爵はすぐに失脚する。
ナポレオン政権下で劇場に求められる趣向が変わるとともに、効果的な上演プログラムを作ることが出来なくなって責任を問われ、1806年末で全ての劇場運営から手をひいた。

子に恵まれず、1814年にカールという長男が生まれるも、その子は12週間しか生きなかった。シェーナウ城という今では観光名所として知られる豪華な城を所有していたが、それも1817年に手放し、2年後の1819年、非常に神経を病んでいたという不確かな情報があるけれどどうなのだろうか、ともあれブラウン男爵は自ら命を絶った。

1819年までの数年間、ベートーヴェンは変わりゆく世の中と、貨幣価値の変動にまともに左右される生活をしていて、甥カールの面倒も見なければいけない状況で自国での出版収入を当てにすることが出来ず、イギリスの出版社トムソンに求められるままにスコットランド民謡の編曲などをたくさんして、なんとか生きていた。いまではその期間はベートーヴェンの低迷期と言われている。

1819年、最大のパトロンでありもっとも優秀な弟子の一人でもあるルドルフ大公がオルシュミッツ大司教に即位することが決まり、ベートーヴェンはルドルフ大公の為に「ミサ・ソレムニス」を作曲する事を約束した。

それまでの5年に関わってきた民謡集の仕事が、その後のベートーヴェンの創作にどれほどの影響を与えたか。その鍵を握るのが、ベートーヴェンが出版社トムソンに民謡集を送る際に自己憐憫をもって「このくだらない仕事」”Bagatelles”と表現した作品群である。

出版社トムソンは、ベートーヴェンに最大の尊敬を示しながらも、イギリスで彼の作品を売るためには「シンプルで演奏が容易なこと」が第一として、ベートーヴェンが少しでも難解な作品を送ってくるとすぐに送り返して「もっと簡単なもの」を要求し続けた。

自分に不得手な仕事でも、「生活のため」”Brodes-willen”という状況に耐えて続けていた、その時期に突如生まれた怪物的作品ピアノソナタ第29番 op.106がその反動から生まれたのだとすれば、このソナタについても”Brodes-willen”(パンの意志)で作ったというベートーヴェンの主張は、ただの冗談でもないように聞こえて来る。

民謡集だけでなく、自分が過去に作った音楽もバガテル”Bagatelle”に書き換えて出版社に売ろうとしているうちに、それはひとつの作曲のイデーとしてベートーヴェンの晩年を支えるようになった。例えば出版社トムソンに請われるまま、フルートとピアノのために作曲された変奏曲集 op.105とop.108は、いまではほとんど演奏されないけれど、ベートーヴェンのバガテル芸術の頂点の一つと言っていい、恐ろしい作品である。

1820年、ベートーヴェンは作曲家シュタルケに請われてバガテルの作曲をした際に、ひとつのピアノソナタを書き上げた。そのピアノソナタ第30番 op.109は完成した時にはすでに三部作となることが決まっていて、ほどなく第31番 op.110そして第32番 op.111が書かれることになる。

ベートーヴェンがバガテルを書く中で身につけた過去の既存作品再生産の視線は、過去に自分が作ったはずであった三部作にも向けられていた。

前年に死んだブラウン男爵の妻に捧げたop.14の2つのピアノソナタは、1798年に書かれたときには三部作となるはずであった。あと一つのピアノソナタはハ短調で書かれ、リヒノフスキー侯爵のための「悲愴」大ソナタという刻印と共にop.13として別に出版された。

「悲愴」という題名については、シラーの”Über das Pathetische”(1801)との関連が指摘されているが、もともと1794年に雑誌に掲載された「崇高論」の中の概念がベートーヴェンの作品題名として現れたとすれば、それはどうしたいきさつからであっただろうか。

「悲愴」ソナタを献呈されたリヒノフスキー侯爵は、嘗てウィーンに出てきたばかりのベートーヴェンに住居を提供するなど、作曲家の最大の理解者でありパトロンだった。
そして
リヒノフスキー侯爵の奥さんは、もともと文化的なパトロンの家の出で、お母さんはベートーヴェンからピアノ三重奏曲 op.11を献呈されている。そしてお父さんはといえば、これがまたフィリップ・マテウス・ハーンが発明・販売していた星座測定機械の顧客であった。ハーンはシラーの「歓喜の歌」成立に大きな影響を与えたといわれる、あの神秘的な牧師なのである。
「より高きもの」を標榜するシラーの思想をリヒノフスキー家とベートーヴェンが共有していたのだと想像すると、つい神秘に傾きがちになるベートーヴェンの名言の数々がより輝きを増してくるように思う。

リヒノフスキー侯爵は1806年に大喧嘩をしてベートーヴェンへの年金の支給を打ち切り、その後会うことなく1814年に心臓発作で死んだ。

ブラウン男爵とリヒノフスキー侯爵が、ともに1806年にベートーヴェンの人生の舞台から消えていたというのは今回初めて知ったことであった…。

とまれ、別に出版された悲愴ソナタだけが大ヒットして特別に扱われることになったことについて、ベートーヴェンとしては自分が世に送り出した初めてのヒット作品という強い愛着があったと同時に、その作品の三部作としての価値を今一度問うてみたいという思いが、バガテルの時代に復活したというのは、あまりに幻想的に過ぎた考えであろうか。

モーツァルトは父の死に際して、かつて自分の書いた室内楽作品を顧みて新たな作品を作った。ブラームスも晩年に自らの作品を顧みていた。

シュタルケに請われて書いたop.119のバガテルを、他の出版社に売るために完成させようとした際に、ベートーヴェンが自分の過去に書いた作品を1790年代にまで遡って考察していたのは確かで、それはまさに最後の3つのソナタを書いた時期のことなのだ。

第31番ソナタ op.110のフーガ主題と第9番ソナタ op.14-1の第1楽章の第1主題が重なること。そして展開部冒頭に「嘆きの歌」のモチーフが出てくるように聞こえる時、この作品をバガテルしたものがピアノソナタ第31番 op.110に含まれていることは疑いが無いように思われるのだ。最終楽章終結部の比較は、それこそバガテルの真骨頂‥それはさすがに言い過ぎだろうか。

第30番ソナタ op.109の第1楽章は、第10番ソナタ op.14-2の第1楽章展開部にその原型を見ることは出来ないだろうか。ここまで来ると…なんだか無理やりな気もしてくるけれど、ここはバガテルの精神で乗り切らなければいけない。

そして最後に「悲愴」ソナタ op.13と第32番ソナタ op.111という2つのソナタの類似性に気付くのには調べ物をするまでもなかったことでもあるけれど、冒頭のズジャーン!が反転してジャズーン!になっていることなど、そんなことを追及していいのかどうか戸惑いがあった。
でも、バガテルがある以上、もう恐れる必要はないのだ。モーツァルトやブラームスも辿った道をベートーヴェンも通っていた、大きな感動がここにはある。

かつてリヒノフスキー侯爵とブラウン男爵の奥さんに捧げられた3曲は、最後のピアノソナタ3曲にバガテルされて生まれ変わった。それは正確でない幻想ではあるけれど、ベートーヴェンの晩年の作曲のイデーを彼の人生から照らすときに、忘れられた民謡集とバガテルを現在に呼び起こす呪文とはならないだろうか。

第30番の1曲は関係が特に深くなっていたブレンターノ家の子に捧げられ、あとの2曲はベートーヴェンの「不滅の恋人」といわれるブレンターノ家の奥さんに献呈されるはずだったのが撤回された。
第31番 op.110は誰にも献呈されず、第32番 op.111はルドルフ大公に捧げられた。

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2019年12月2日(月) 20:00開演
「L.v.ベートーヴェン」 – ピアノソナタ –
ピアノ: 松本和将
https://www.cafe-montage.com/prg/191202.html