メンデルスゾーン –  マタイ受難曲の行方

「完全にオーケストラ作品として演奏されるべき」
1825年、ベートーヴェンが最後の弦楽四重奏を、そしてシューベルトが二つの巨大なピアノソナタを書いていたまさに同じ時に、16歳のフェリックス・メンデルスゾーンがこのような作品を書いていた。それは親友エドゥアルト・リーツに捧げられた。

 
そもそもエドゥアルトの名は、リーツではなくリッツということであった。エドゥアルトの若き死の後、彼の有名な弟ユリウスが苗字をリーツに改め、その後の活躍が華々しかったために、その改名に関りのないエドゥアルトの苗字も改められたとのことである。でも、ここではリーツで通すことにする。
 
まだ10歳にならない頃、ツェルターについてピアノを習っていたフェリックスは《正確なヘニング》という異名をとった人にヴァイオリンを少し習っていたが、そのヘニングはすぐにいなくなってしまった。そのあとを引き受けたのが、フェリックスより8歳年上のエドゥアルトであった。
 
自身もツェルターの弟子であったエドゥアルトは、プロイセンの宮廷ヴァイオリニストであった父ヨハンの関係で幼少からベルリンの音楽環境に深く親しんでいた。若き師弟は意気投合し、まもなくフェリックスはエドゥアルトの為の音楽を熱心に書き始めた。彼らは二人ともヴァイオリンとヴィオラの両方を弾くことが出来た。
 
11歳のフェリックスが1820年に初めて書いたピアノトリオが、ヴァイオリン、ヴィオラとピアノという珍しい編成なのは、それだとエドゥアルトと自分が一緒に演奏できるという理由があったからだ。フェリックスはヴィオラソナタもヴァイオリンソナタも書いて、エドゥアルトに捧げた。
 
1824年、フェリックスは祖母のべラ・バルトルディから1冊の手書きの楽譜を手渡された。それはおよそ100年前にライプツィヒのトマス・カントルであったヨハン・セバスティアン・バッハによって作曲された受難曲ということであった。
 
その作品、J.S.バッハのマタイ受難曲は、フェリックス・メンデルスゾーンが復活上演するまでは完全に忘れ去られていたという話を聞かされていた。しかし”完全に”という言葉にはいつも疑いを持つべきであると、そのようにも私は聞かされていた。
 
エマニュエル・バッハから、J.S.バッハとテレマンほか様々な音楽遺産を引き継いだペルヒャウは、ベラ・バルトルディの娘で後にフェリックスの母となるレア・バルトルディとすでに20年以上の知り合いであり、その流れで母ベラとも交流があった。
 
マタイ受難曲の自筆譜はまだ複製されておらず、しかしフェリックスの祖母ベラはそれを孫フェリックスにプレゼントにしたいと考え、知り合いの音楽家に楽譜の複写を頼んだ。 翌年、マタイ受難曲の複製スコアを手にいれたベラは、孫フェリックスの誕生日にそれを手渡した。フェリックスは狂喜した。
 
メンデルスゾーン家とJ.S.バッハの遺産とのつながりはフェリックスが祖母からマタイ受難曲の楽譜を貰うより20年以上前からあった。そのことはフェリックスの父アブラハムが買い集めたコレクションからも知ることが出来る。次に、それが果たしてメンデルスゾーン家だけのつながりであったかということになる。
 
膨大な音楽遺産を抱えたペルヒャウが誰とどのような交流があったか、細かに辿ることは出来ないが、彼はベルリンでツェルターのアカデミーでテノールのソリストを1814年から勤めていた。そこではペルヒャウの遺産がツェルターによって活用されていて、その中にはバッハの合唱曲もいくつか含まれていた。
 
1821年、フェリックス・メンデルスゾーンはワイマールのゲーテを訪ねていて、その時の集まりにおいてゲーテが部屋の奥から出してきたモーツァルトやベートーヴェンの知られざる作品の手稿譜をピアノで「昔から知っている曲のように」弾いて聴かせ、皆を仰天させたことを詩人のレルシュタープが記録している。
 
そのレルシュタープというのは、ジャンパウルやショーペンハウエルの母と親しく、音楽好きが嵩じてウェーバーやツェルターに会いに行き、ついにはベートーヴェン参りも果たして自作の詩をベートーヴェンに捧げ、それは後にシントラ―からシューベルトの手に渡り、白鳥の歌を書かせたあのレルシュタープである。
 
古典の巨匠とメンデルスゾーンの距離は、とても近いところにあったということだけは書いておかなければいけない。例えば1823年にフェリックスの姉ファニーがミュラーの「美しき水車屋の娘」による歌曲をいくつか書いていたが、シューベルトが同じ詩集による大作を書きあげたのもその年のことである。
 
ベートーヴェンが荘厳ミサ曲を書き上げ、その最初の顧客名簿にツェルターの名前を書いた1823年、すでにバッハのロ短調とヨハネ受難曲を演奏していたジングアカデミーはマタイ受難曲に取り掛かろうとしていた。そして、べラ・バルトルディが孫フェリックスの為に楽譜を手に入れようとしていた。
 
思えば、ベートーヴェンが新作を直接送り届けようとするような巨大組織、ベルリン・ジングアカデミーには当時のありとあらゆる情報、そして音楽家が行き来していた。そして、ジングアカデミーに関係する人であれば、その心得さえあればバッハのミサ曲や受難曲を知ることが出来た。
 
つまりバッハの作品は、一般の聴衆に浸透するにはまだ時間がかかるのであったが、音楽界においてはいま想像する以上に広く知られていたのではないだろうか。それでなければフェリックス・メンデルスゾーンの祖母が、孫に内緒でマタイ受難曲の筆写譜を作らせることが果たして可能だっただろうか。
 
祖母から受け取ったマタイ受難曲の譜面から感じ取った壮大な構想、2つのオーケストラと2つの合唱団が、ひとつの舞台に並ぶ絶景は、翌年、そのままフェリックス・メンデルスゾーン自身によって2つの弦楽四重奏による合奏作品に結びついた。
 
ところで、祖母ベラに頼まれてマタイ受難曲の譜面の複写をしたのは、実はエドゥアルトの父、ヨハン・リーツであり、のちに演奏用のパート譜を作ったのはほかならぬエドゥアルト自身であった。フェリックスは2つの弦楽四重奏のための新たな合奏曲、後に作品20として出版される弦楽八重奏曲をエドゥアルトに捧げた。
 
 「完全にオーケストラ作品として演奏されるべき」であると、弦楽八重奏を演奏する際に、その全ての奏者の心得としてフェリックスが言い残したのは、その構想の壮大さを自負してのことであったし、実際フェリックスとエドゥアルトはジングアカデミーでその壮大さを深く体験し、共有していた。
 
親友であり若き師でもあるエドゥアルトが率いるオーケストラ。その為に書かれた弦楽八重奏曲は、モーツァルトのト短調の弦楽五重奏曲の引用から開始される。彼らは自由の翼を与えられ、さまざまな山脈を乗り越えて、複雑なフーガを経て約束の地に降り立ち、恍惚の大合唱に迎えられる。
 
「ハレルヤ。栄光は永遠に続く!」
 
ツェルターが準備をしていたマタイ受難曲の蘇演は、フェリックス・メンデルスゾーンの手に託され、1829年にそれは果たされた。その後フェリックスは長い旅に出た。1832年、親友エドゥアルトは急死した。旅先のパリでその報を受けたフェリックスは追悼のコラール楽章を書き、それは作品18の間奏曲として出版された。


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’19年8月22日(木) 16:00 & 20:00開演
「弦楽八重奏」
– F.メンデルスゾーン生誕210年 –

ヴァイオリン:
平光真彌 米田誠一
安田祥子 波馬朝加
ヴィオラ:
中村洋乃理 景山奏
チェロ:
長谷川彰子 佐古健一

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