ラヴェルの「鐘の谷」という作品の事がよくわからない、ずっとそう思っていた。
この作品は『鏡』という曲集の最後、つまり5曲目に置かれていて、「夜の蝶」「悲しい鳥」「洋上の小舟」「道化師の朝」というそれまでの4作品が、はじめから楽しく聴くことが出来るのに対して、なぜか「鐘の谷」だけは頭に入ってこない。音楽が始まるだとも、終るとも思わないうちに、いつの間にか終わっている。
いつから響いているかということもなく、いつ鳴り終わるかということもないことの象徴を、街の鐘の音に象徴させたということだけは分かる。そう思えば成程、時間の存在を忘れさせるのかと少し納得もできる。
パリの街じゅうに鳴り響く鐘、というラヴェルの言葉もあるようだけれど、京都で言えば除夜の鐘のようなものだろうか。一体どれだけ寺があるのかわからない京都で、実在する誰かが無数の寺に出向いて、まさにいま大きな丸太を揺らしている無数の鐘の響きをただ聴いていると、毎年ながら奇妙な思いにかられる。でも、ラヴェルの鐘は多分、違う。
リストの『巡礼の年』からの影響と言われるところを、頼りに「鐘の谷」だけを取り出して聴いたことが以前に一度あった。でも、なぜこの曲が『鏡』の中にあるのかは、そのままにしてしまっていた。
もっと音楽のこと。もっと近づくことが出来るはずだとずっと思っていたところに、ようやく光が見えてきた。フォーレが自身のピアノ四重奏 第2番の第3楽章について、幼い頃に暮らしたモンゴジ(Montgauzy)で夕暮れに聞いた微かな鐘の音の思い出を「ほとんど無意識のうちに」書き映したと言っているのだ。
そして、ラヴェルが書き写したのはおそらくこのような場面ではないだろうか。
ところで、先のフォーレの発言は彼が1906年の9月に妻に書き送った手紙の中でのことであった。つまり『鏡』の初演(1906年1月、国民音楽協会)のあとの事なのだ。
どういうことだろうか…。
『鏡』は有名な「ラヴェル事件」のすぐ後に書かれ、芸術家グループ「アパッシュ」のメンバー5人にそれぞれ献呈された。
『鏡』という曲集のタイトルはシェイクスピア作品のフランス語訳から、以下の部分に触発されたものであるとラヴェル自身が語っている。
“La vue ne se connaît pas elle-même avant d’avoir voyagé et rencontré un miroir où elle peut se reconnaître.”
これは「ジュリアス・シーザー」の第一幕 第二場のブルータスのセリフで、言語では以下の部分にあたる。
No, Cassius, for the eye sees not itself but by reflection, by some other things.
ここの”reflection”がフランス語訳では鏡という意味になるのだろうか。
そもそもシェイクスピアからの引用ということを表明している時点で、それはどのようにでも解釈できるという含みを持っているはずなのだけど、
「ジュリアス・シーザー」から、マーカス・ブルータスとキャシアス・ロンギヌス(ロンギヌスの槍の人とは別人)がシーザーの暗殺へと向かう会話から
・・・・・
キャシアスからブルータスへ
「…俺を見る目が変わってきたな。かつてはそこから覗いていたあの優しさが、友情の光が、すっかり消えてしまった。…妙によそよそしい、きみを愛する友達にまで」
ブルータスからキャシアスへの返答
「誤解しないでくれ。おれが人に面を見せたがらないというのも、いわばおのれの暗い顔をひたすら自分の胸に向けようとするからなのだ。おれは苦しんでいる。…この不愛想も、己を相手の戦いで精一杯、他人に友情を示すゆとりを失ってしまったのだと、そう思ってくれればいい。」
キャシアス:それなら、おれはとんだ誤解をしていたことになる。…ブルータス、きみには自分の顔が見えているか?
ブルータス:キャシアス、目がおのれを見うるのは、ただ反射によってだけだ、何かほかのものがなければ、見えるはずがない。
キャシアス:ブルータス、君にはその鏡がないばかりに、自分の隠れた値打ちをその目に映し、在るがままのおのが姿を眺めることが出来ないのだと。
ブルータス:おれはシーザーを深く愛しているのだが…
キャシアス:…ブルータスとシーザー、その「シーザー」という一語のなかに何があるというのだ?どうしてその名がきみの名よりも、多くの人の口の端にのぼせられるのか?…きみの名だって立派なものだ。一緒に並べて呼んでみるがいい、響きのよさに代わりはあるまい。
ブルータス:…おれに何をさせようとしているのか、だいたい察しはついた。ただ、今のおれとしては、頼む、しばらくそっとしておいてもらいたいのだ。
・・・・
引用をするといつも長くなる。
でも、どうだろうか。
まず「鏡」という言葉はラヴェルが引用した次のセリフに出てきている。
つまり、「君にはその鏡がない」という部分。
That you have no such mirrors as will turn your hidden worthiness into your eye that you might see your shadow.
こうしたことから想像するあれこれが、ラヴェルがアパッシュの中で置かれていた立場を意味しているのか、もしくは彼特有のユーモアなのか。ともかく彼は1曲目を自分より8歳年上のファルグ、2曲目を同じ歳のヴィニェスに、3曲目と4曲目を2歳若いソルヴォとカルヴォコレッシに、そして5曲目の「鐘の谷」を4歳若い弟子のドラージュに捧げた。
フォーレは「鐘の谷」の中に自身のピアノ四重奏曲のアンダンテが映し出されているのを聴いた後、自分の無意識にに言及しながら、「おそらく音楽の領域に属する、存在しないものへの願望…」と語っていることについて、何か思いださなければいけないことがないだろうか。彼もおそらくはラヴェルから鏡を受け取った一人だったのではないだろうか。
そして、ラヴェル、もしくは「アパッシュ」のメンバーにとってのジュリアス・シーザーとは誰の事であっただろうか。
「ラヴェル事件」のあと、ラヴェルは来るべき時代に向けて、過去を清算し始めた。あれほどに親しみを覚えていたドビュッシーとの関係だけではなかったのではないか。
最後に、シーザー本人の台詞を引用しておきたい。
シーザー:この耳にはどの楽の音より鋭く聞こえたぞ。「シーザー」という叫びが。言え、シーザーは待っている。あとを聴こう。”
シーザー:いかなるときにも、おれはシーザーだからな。右に来てくれ。こちらの耳は聞こえないのだ。あの男をどう思っているか、ひとつお前の本音を聞かせてくれぬか。
・・・・
2019年7月19日(金) 20:00開演
「M.ラヴェル」 1899-1905
ピアノ: 松本和将
https://www.cafe-montage.com/prg/190719.html