1880年の初演のあと、すでに出版の決まっていたピアノ四重奏曲 op.15(1879年版)の第4楽章を、フォーレが書きなおすことにした具体的な理由は分かっていない。第1から第3までの楽章だけを出版社に手渡したあと、全く新たな第4楽章が完成したのは4年後の事であった。もともとの第4楽章については何の情報も残されていない。
新たな第4楽章付きのピアノ四重奏曲(以下、op.15と記載する)が初演された1884年、フォーレはすでに次のピアノ四重奏曲(以下、op.45と記載する)の作曲に取り掛かっていた。op.15の出版において全く報酬を得ることのなかったフォーレが、なぜ誰にも頼まれることなくop.45を書くことにしたのか…。
例えば、フォーレが1883年までに書き直したのが第4楽章だけでなく、完全に新たなピアノ四重奏曲を書き上げて1879年版を完全に刷新しようとしていたとすれば、どうだろうか?
しかし、4年の間さんざんに待たされた出版社がすでに出版の準備していた古い3つの楽章を破棄することを拒否して、新たな第4楽章だけを受け取ったとして、フォーレの手元に3つの新たな楽章が残されたのだとすれば?
フォーレがop.15を書き直したもの、その3つの楽章をさらに2年かけて書き直し、さらに新たな第4楽章(もしくは手元にあった1879年版の第4楽章を書き換えた…?)を用意してその最後に付け足したものがop.45だと仮定すれば、op.15とop.45、この兄弟のような2つの作品の類似性とそれぞれの独自性について、もう少し考えてみることが出来るのではないかと思った。
フォーレがヴァイオリンソナタ第1番を発表し、引き続いてハ短調であるop.15の作曲に取り掛かった1877年、サン・サーンスのハ短調のピアノ協奏曲(1875)をフォーレが2台ピアノ版に編曲したものが出版された。この2つのハ短調作品の関係は、例えばこのような部分から何かを見出すことが出来るかもしれない。
フォーレとハ短調ピアノ協奏曲との関係としては、1869年にベートーヴェンのピアノ協奏曲 第3番、そして1902年にモーツァルトの協奏曲 第24番のカデンツァをそれぞれ作曲していて、それらの作品とフォーレのop.15とはおそらくもっと直接的な関係があるように思われる。(その事については別の記事に少し書いた)
op.15の新たな第4楽章を出版社が受け取った頃、フォーレはニ短調の交響曲を完成させていて、op.40という番号で出版が決まっていたにも関わらず、フォーレは楽譜を出版社に渡すことがなかった。そちらは、いくつかの主題が後の室内楽曲に転用される形でいまに残されている。
1883年、ワーグナーが死んだその年、ブルックナーの第7番、そしてブラームスの第3番の交響曲が完成、翌年にかけて相次いで初演された。フォーレがこの時点でop.45の原型をハ短調で書いていたとすれば、それはよりop.15に近い形であったのではないか。op.15とop.45のいずれもAllegro molto moderatoと指示されているその第1楽章の第1主題にみえる類似性において、その痕跡を見出せるのかもしれない。
しかし、op.45がト短調と定まって3年後の完成に向かうとき、最初にその関係性が問われるのはシューマンのピアノソナタ 第2番である。ト短調の協奏曲といえばバッハとリストの間を揺れ動くような大作、サン・サーンスのピアノ協奏曲 第2番 (1868)がある。
ともあれ、フォーレがop.45を(op.15の改訂版を雛形として?)書いている間の消息はまったく伝わっていないそうだが、1885年のパリの楽壇における大事件を見逃すわけにはいかない。
ウジェーヌ・イザイの登場である。
1876年にマラルメの「牧神の午後」が発表され、パリはウィーンにおけるより早く世紀末を体験していた。その空気が浸透しつつあったフランス音楽協会は、イザイの登場によってはっきりと世紀末の世相を反映する舞台を持つことになった。
フォーレのop.45が完成に向かったのはまさにこの時期のことで、op.15の最終楽章(1883年)にはまだ見ることの出来なかったヴァイオリンの最高音の扱い、そしてシェーンベルクがフランス印象派の特徴としていた「音色旋律」の多用など、op.15とop.45の間にはっきりと感じられる時代の空気、フォーレの深い呼吸の音さえ聞こえてくるようだ。
ドイツにはヨアヒムがいた。
シューマンとブラームスでさえ、その人なくしては後世における意味が全く違っていたであろうと思われる、ヨアヒムという大ヴァイオリニストの存在。バッハもベートーヴェンも、彼なしには聴くことが出来なかったのだ。
そのような存在を長く持たなかったパリが、ここにきてイザイを所有したのである。
世紀末に向けて、パリがドイツを引き離してその加速の度を深めることになったその衝撃について、イザイが1884年に作曲した2つのマズルカと共に考えてみたいと思う。
ウィーンにその空気が持ち込まれたのは、まだ少し後のことであった。
フォーレのop.45が初演された1887年、ウィーンではブルックナーの第8番、そして翌年にマーラーの第1番の交響曲が相次いで完成。フォーレはop.45をハンス・フォン・ビューローに献呈した。その時、パリはセザール・フランクの最晩年をイザイと共に体験していた。
以上、op.45がop.15を改訂する中で生まれた楽章をもとに作曲されたという仮定がもし成立するとすれば、op.45は1877年からほぼ9年をかけて生み出されたことになる。世紀末はパリからウィーンへと波及した。その10年後、今度はウィーンがシェーンベルクを生み出すことになる、この空気の流れをいずれ追ってみたいと思う。
1889年、イザイと共にブリュッセルを訪れてピアノ四重奏曲 第2番を共演したフォーレは、新たなピアノ四重奏曲を彼のために書くことを約束し、その創作は15年という長い期間を経て、まったく別のop.89として世に出されることになる。
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2019年6月15日(土)&16日(日)
「ピアノ四重奏」 – G.フォーレ
ヴァイオリン: 石上真由子
ヴィオラ: 大山平一郎
チェロ: 加藤文枝
ピアノ: 江崎萌子
http://www.cafe-montage.com/prg/19061516.html