ショスタコーヴィチ、現代

「盟友のヴァイオリニスト、ダヴィッド・オイストラフの60歳の誕生日のために書き始めた協奏曲が思ったよりも早く完成してしまい、59歳の誕生日プレゼントとなってしまった。」

そこで、急遽60歳の誕生日に向けて筆を走らせて書かれたという、ショスタコーヴィチのヴァイオリンソナタについて。

時はフルシチョフ失脚後のロシア、冷戦の緊張下で世界の地図が書きかえられていく中で起きた「プラハの春」そしてロシア軍のプラハ侵攻、まさにその年に書き上げられたヴァイオリンソナタと弦楽四重奏曲第12番、そして翌年に発表され、盟友ブリテンに捧げられた交響曲第14番は、いずれも十二音技法を一つの暗示として配置している。

十二音技法に限らず、方法でもって作曲することにショスタコーヴィチが慎重であったという事について、もう少し考えてみたい。
作曲をしない人間からすれば、音楽は全て何らかの方法で持って作曲されていると考えている。しかし、それが間違いだとすれば、音楽はどの様にして作曲されているのだろうか。

最低音が主調を決定し、そこからの逸脱を示し、いずれ戻るまでの冒険の道標とも、目標を見誤らせる蜃気楼ともなる。躓きの石、その言葉を私は定義出来ないのであるが、音楽における低音はそのような存在ではないかと言われたら、なるほどそれは方法ではないということだけは分かるような気がするのだ。

まず初めに十二の選択肢があり、でも十二の平等な選択肢が用意されているわけではない。それらは楽器の選択にも深く関係し、作曲家自身のヴィジョンと、そのヴィジョンからの距離を測る作曲家の視力にも関係している。つまり、これらは方法ではなく、どちらかといえば制限と言った方が理解できるものなのではないか。

こうすればより簡単であり、こうすれば複雑になるということも、方法ではない。dからFに移り変わる際に、いくつか既知の方法が目の前に示されているとして、モダンジャズにおいても新たなひとつの方法が探り当てられたが、そこで発見された新たな方法はすでにひとつの制限として世に残された。

そのようにして世に残された制限の数々によって一度は支配され、そこからの自由を模索して来たのが音楽の歴史だとすれば、それらの制限を一度全て撤廃してみようという運動があり得るとしても、それが一つの方法である限りは、おなじく一つの制限として世に残るだけの話ではあるのだ。

ショスタコーヴィチがヴァイオリンソナタにおいて提示した十二音を、フランツ・リストが掲げた3つの減七和音になぞらえることは、盟友ブリテンのチェロソナタに出現したフランツ・リストの残像が語っていたことと併せて考えると、彼らが独自の方法で私達に残した制限の意味が浮かび上がってくる。

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2019年3月1日(金) 20:00開演
「ヴァイオリンソナタ」

ヴァイオリン: 西江辰郎
ピアノ: 岡田将
http://www.cafe-montage.com/prg/190301.html