ある人からは、前衛的に過ぎる、といわれ
あるひとからは、保守的ではないか、といわれる
ドミトリ・ショスタコーヴィチとベンジャミン・ブリテンについて、何か書くことが出来ないだろうと思う中で、ある種の定義はその対象を置き換えることで、いつでも成立するものだと了解した。
バルトークは、保守的ではなかったか。
ブーレーズは、実は保守的ではなかったか。
シュトックハウゼンは、さては保守的だったのではないだろうか。
ケージは、やはり保守的であったかもしれない。
ブリテンは1963年のインタビューで、各方面で好評の「戦争レクイエム」が、ウィーンでは一定以上の評価を得ていない、と言われることについて語っている。
「ウィーンはいつの時代も伝統を重んじてきた街だ。僕のレクイエムは伝統的な書法でも、伝統的な”アヴァンギャルド”の書法でも書かれていないからね」
ショスタコーヴィチは、ブーレーズの「マルトー・サン・メートル」のスコアを50年代には入手してそれを高く評価し、愛弟子のエディソン・デニソフと研究していた様子は、64年にダルムシュタットでマデルナの指揮で演奏され、後にブーレーズに捧げられたデニソフの「インカの太陽」からも聴こえてくる。
ショスタコーヴィチは「マルトー」の譜面を、その半年後に脳卒中で言語野が破壊される直前の親友シェバーリンに、その57歳の誕生日プレゼントとして投げ与えた。シェバーリンはその10年以上前、1956年に「マルトー」をおそらくロシアで初めて演奏していたと伝えられている。
「ブリテン?もうずいぶん昔に亡くなったはずでは?」
ロストロポーヴィチは1960年にショスタコーヴィチから紹介された際に、ブリテンとはヘンリー・パーセル(1695年没)のことだと思っていた…、と告白している。
「私がベンジャミン・ブリテンです」
「おお、ベン!」
心のパーセルとの邂逅であった。
「まだお前には早すぎる」
ショスタコーヴィチは、音楽院の指揮科を卒業したばかりなのに、父がオイストラフに捧げた新作、ヴァイオリン協奏曲第2番の初演の指揮をしたいと言う愛息マキシムに、そんなきつく言うことが出来なかった。そして、オイストラフに息子を説得してもらい、初演はコンドラシンの指揮で無事行われた。
翌1968年、ショスタコーヴィチはオイストラフの60歳の誕生日に捧げるヴァイオリンソナタを書き、その初演の後、長年の懸案であったムソルグスキーの「死の歌と踊り」に対応する作品、交響曲第14番を書き上げ、ベンジャミン・ブリテンに捧げた。
ブリテンとショスタコーヴィチ、そしてロストロポーヴィチの友情が結実した初めの作品、1961年にブリテンが作曲したチェロソナタは、その出会いの象徴であるショスタコーヴィチのチェロ協奏曲にインスピレーションを与えたプロコフィエフの第1ヴァイオリンソナタの引用で開始される。
そして、ブリテンのチェロソナタについて、その成立リストからバルトークへと連なるハンガリー楽派への憧憬を見ると、この作品はどちらかといえばロストロポーヴィチではなくショスタコーヴィチにあてたメッセージと身振りが多く含まれているのではないかと思うようになった。
バルトークはオーケストラ協奏曲の中でショスタコーヴィチに言及していた。ブリテンはチェロソナタの中にバルトークのピアノ協奏曲とリストのピアノ作品の間に往復可能な橋を幾つもかけ、それらが突如としてプロコフィエフの音響を伴って出現する。そこに彼のシニカルな笑顔を見るような気がする。
ショスタコーヴィチが1949年にニューヨークにでジュリアード四重奏団の演奏でバルトークの第4と第6の四重奏曲を聴き、第6番の方に感銘を受けたという、その事をブリテンにも語ったかどうか、ブリテンはチェロソナタの中であからさまに第4番の引用を、奇天烈な身振りで展開する。
そして、それらの引用が曲の進行とともに複雑さを増すにつれて、それがどのようにして形を保っているのか分からない感覚に襲われ、後にジェルジュ・リゲティが作曲することになる作品とも繋がってくるのだと思って怖くなったその時、ブリテンは突然にハ長を告げ、風のようなパントマイムは終了する。
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2019年2月28日(木) 20:00開演
「ベートーヴェン&ブリテン」
チェロ: 上森祥平
ピアノ: 岸本雅美
http://www.cafe-montage.com/prg/190228.html