15世紀、世界は終わりを迎えようとしていた。
16世紀、世界は生まれ変わろうとしていた。
ヨーロッパなり、キリスト教なりと、今の世の中で認識されているほとんどのことはこの時期を境に生まれたものである。
親族登用主義によるバチカンの腐敗は、1492年に就任したローマ教皇アレクサンデル6世において頂点に達し、腐敗を是正するための改革を唱える勢力が拡大した。バチカンは段々に孤立し、あろうことかフランスに助けを求めたためにフランス軍がイタリアに侵攻し、イタリアは火に包まれた。
1519年にレオナルド・ダヴィンチ、翌20年にラファエロが相次いで死に、翌21年にマルティン・ルターが、ミケランジェロの幼馴染でありラファエロのパトロンで、毎日宴会や大名行列を繰り広げてローマに未曽有の財政破綻を引き起こした教皇レオ10世から破門された。
宗教改革はヨーロッパの各地に戦火をもたらした。その長い戦争が結果としてフランスに優雅さの発見をもたらした皮肉については、今は書かない。バチカンの腐敗に苦慮しながらも、宗教改革に組しないカトリックの内部において、宗教改革に対抗する改革…そんな勢力が現れた。
1525年、19歳のフランシスコ・ザビエルはパリ大学で伝説のインテリ、ピエール・ファーブルと同じ部屋に暮らすことになった。その4年後、戦争でけがをして出遅れ、36歳になってやっとパリ大学に辿り着いたイグナチウス・ロヨラが、ザビエルとファーブルの部屋に割り込んできた。
6年後、ザビエルはファーブルやロヨラほか6人の仲間とモンマルトルの丘で誓いを立てた。イエズス会はこうして始まった。イエズス会の7人はエルサレム巡礼を企て、まずバチカンに行ってローマ教皇パウルス3世から修道会の認可を受けた。でも、戦争がすごいのでエルサレムに行くのはあきらめた。
イエズス会の7人はエルサレムに行くことが出来ないので、世界を目指すことにした。そんな折、ポルトガル王からインドのポルトガル領での宣教の依頼が来たので、1541年、ザビエルはリスボンから船に乗った。ロヨラはイエズス会総長となってシチリアに大学を作り、ファーブルはヨーロッパ全土を巡回した。
翌1542年、インドのゴアに到着して宣教師となったザビエルは、どうやら罪人となってインドまで流れ流れてきたらしい日本人ヤジローに出会った。ヤジローと仲良くなったザビエルは日本で宣教活動をする決心をして、1549年8月15日、鹿児島の地を踏んだ。
ザビエルは京都に来たらしい。室町幕府が崩壊し、摂津国守護代の三好長慶が京都でも権勢を揮って後の信長の世の下地を作っていた中、ザビエルは足利家に向かっては贈り物がないといって門前払いを受け、延暦寺に登ってお坊さんと論戦を交えようとして断られたりもしたらしい。
結局ザビエルは2年と少し日本にいてインドに帰った。ザビエルはもう少し力をつけてからもう一度日本に行こうと思っていたらしく、それにはまず中国で布教して認められようと思って、翌1552年に中国に向かう途中で死んだ。同じ年、高山右近が摂津に生まれた。
高山右近は、ザビエルの日本滞在中の親友で琵琶法師のロレンソ了斎から父が洗礼を受けていたので、自分も10歳で洗礼を受けた。勲功で信長から名馬をもらい、それをまた秀吉に与えるなど、摂津の国で様々な引力の間を行き来しながら、キリスト教への信仰を深めていた。
信長の肝いりで近江八幡に作られた神学校セミナリヨを、摂津国高槻に移したのは高山右近である。セミナリヨは日本最初の小学校ともいうべきもので、合唱に笛や鍵盤楽器による音楽の授業もあって、遠足や文化祭なんかもあったそうだから、なんだかすごい。摂津の国はキリシタン天国と化した。
しかし、秀吉によるバテレン追放、そして江戸幕府による禁教令によって、高山右近は1614年に国外追放となって翌年にマニラで死に、摂津国のキリシタン達は地下に潜り続け、教科書に載っていたザビエルの肖像は摂津国茨木市で大正時代になって発見されたものだということを最近初めて知った。
高山右近のセミナリヨに、はたしてクリスマスはあったのかな…と考えてみて、ないほうがおかしいのではないかと思った。ヨーロッパの生まれ変わりとその象徴であるイエズス会の台頭、ザビエルを通じてそれをリアルタイムに体験した摂津の人々のクリスマス。響き渡る合唱、オルガン…
摂津の国茨木市には通称クルス山というのがあって、その山中に上野マリアという人の墓碑が見つかって、そこには慶長八年と書かれているらしい。つまり1603年、それは徳川家康が征夷大将軍になった年である。
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2018年12月23日(日) 20:00開演
「浄瑠璃」
― 語りの系譜 ―
三味線と浄瑠璃: 新内志賀