ハイドン、モーツァルト、もう一人の自分

ハイドンとモーツァルトについて考えていた。

1781年の5月、モーツァルトはウィーンに移り住んだ。その年の12月に初演されたハイドンの新しい弦楽四重奏曲はこの二人の作曲家の距離を急激に近づけた。

いまだエステルハージのお抱えであったハイドンと、ウィーンで新時代の音楽家を標榜し、目覚ましい活躍を続けるモーツァルトとが一緒にいる時間はあまりなかった。しかし、二人は互いの作品を参照し、互いに親密な記号として引用し、1785年モーツァルトの「ハイドン・セット」によってその親密の度は最高潮に達した。

1785年の2月、「ハイドン・セット」を完成させたモーツァルトはハイドンのフリーメーソン入会を促し、そのあと父をウィーンに迎えてフリーメーソンに入会させた。同じ年の12月、ハプスブルクのヨーゼフ二世は秘密結社の活動を制限する政令を出した。

1785年末にヨーゼフ二世が出した政令は、革命思想を持つとされた最大の秘密結社イルミナティに近いフリーメーソンを排除し、フリーメーソン支部を8つから3つに縮小させた。その時にフリーメーソンを去った多くの人たちの中には、その年に入会したばかりのハイドンもいた。

同じ1785年、ハイドンはスペインの教会から四旬節のための、器楽による宗教作品を委嘱された。それは10分間の7つの緩徐楽章ということで依頼されたが、ハイドンは7つの楽章全てを10分もの長さというのは難しく思い、また全てが緩徐楽章であることにも不安を覚えながら、彼としては異例の労苦、時間をかけて作曲した。

翌1786年、それは管弦楽曲「十字架上における救い主の最後の言葉」として初演を迎え、すべての窓が黒い布によって遮光された教会、その暗闇の中、天井に一つの灯りだけが灯る下でその実演を聴いたハイドンは、自らの作品の可能性を確信し、自身の代表作として人に尋ねられた時には「最後の言葉」と答えていたという。

この「最後の言葉」の中にあるモーツァルトからの引用、モーツァルトがここから引用したもの、その間には境界線が見えない。この二人が共作をしていたはずのないことは承知していても、1785年以降、そこには親密さという以上の何かがあったに違いないと思うのである。
モーツァルトのピアノ協奏曲、ピアノ四重奏曲、「夕べの想い」、「魔笛」、レクイエム‥ ハイドンとモーツァルトの心が一つ調子に打つ瞬間が「最後の言葉」のそこかしこから聴こえてくる。

存在の耐えられない近さ…

ハイドンとモーツァルトのような、こうした二人は、同じ時間、同じ場所に存在することは許されない。シューマンとブラームスもそうだったし、ドビュッシーとラヴェルもそうであった。1790年、エステルハージ家を出てウィーンに居を構えて間もないハイドンに、ロンドンの興行師・ザロモンからの招待状が来た。

「これがあなたに会う最後になるでしょう」
1790年、モーツァルトはロンドンに向かって旅立つハイドンに告げた。

1791年の1月1日、ハイドンはロンドンに到着した。
1月5日、モーツァルトは最後のピアノ協奏曲を書き、9月に「魔笛」を完成させ、10月にクラリネット協奏曲、11月にフリーメーソンのカンタータを書き、未完の「レクイエム」を残して12月に死んだ。

「すべてを知るべく学べ、しかし汝自身のことは知られるな」
これはイルミナティとは別の秘密結社のモットーであったのだが、それは芸術において唯一本当と言えるものではないだろうか。一つの人生が終わったあとに残された謎がいずれ記号となり、その象徴を読み取るものを通じて不滅の魂として生き続けるのだ。

モーツァルトは、イルミナティの消滅後もフリーメーソンに留まり、さまざまな謎を残した。ハイドンはモーツァルトが死んだ翌年にベートーヴェンを連れてウィーンに戻り、そのあと1809年まで生きたが、その晩年に人がハイドンを訪ねても、彼はもの忘れの激しい老人として応対した。

ハイドンの「最後の言葉」
その中に隠された象徴を全て読み取ることなど、とても出来るものではなく、でもハイドンはここで「7つの最後の言葉を音楽で語る」ことによって、言葉では得ることのできない「根源的な体験」を広くもたらすことを目論み、これを弦楽四重奏の形で発表した。

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2018年11月13日(火)&14日(水)
「弦楽四重奏」
ヴァイオリン: 漆原啓子
ヴァイオリン: 上里はな子
ヴィオラ: 臼木麻弥
チェロ: 大島純

J.ハイドン: 弦楽四重奏曲
『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』Hob.III:50-56
http://www.cafe-montage.com/prg/18111314.html