ルイ・ヴィエルヌ

ルイ・ヴィエルヌはギョーム・ルクーと同じ1870年の生まれ。
幼少より音楽の才能を示し、パリの盲学校に通う中で14歳の時にセザール・フランクに見出され、聴講生として彼の授業に参加しながら、ピアノとヴァイオリンそしてオルガン演奏の勉強を続けた。

1890年、フランクが交通事故の後遺症の末に死んでしまい、ヴィエルヌはパリ音楽院でヴィドールの指導を仰ぐこととなった。そのオルガン演奏は巨匠ヴィドールに認められるところとなり、ルクーが死んだ1894年にヴィエルヌはオルガンで一等賞を得てパリ音楽院を終了した。

結婚し、1900年にノートルダム寺院の首席オルガニストとなって、はたから見れば順風満帆のようであったヴィエルヌの人生は、第一次世界大戦に向けて苦しみに満ちたものに変貌することになる。

3児をもうけた妻アルレットが、ヴィエルヌのもとを去ってオルガン職人のところに走り、10歳の次男が結核で死んでしまい、あてにしていたパリ音楽院のオルガン教授の職への就任が大反対にあって頓挫、そして1917年の11月、第一次大戦において今度は長男が死んでしまったのだ。

ヴィエルヌの長男ジャックは当時まだ17歳、戦地に赴くにはまだ早すぎたところの志願で、必要となった親の同意書にサインをしたのは外ならぬヴィエルヌ自身であった。緑内障の治癒のためにスイスに滞在していたヴィエルヌは、息子の死が最終的に自殺であったことを知った。

息子の死から4か月後にドビュッシーが死に、その2か月後、五線譜を顔すれすれに近づけて大きな音符を書いて作曲するヴィエルヌの作業を助け続けた弟ルネが、オーストリア軍の砲弾に当たって死んでしまったことも、ヴィエルヌはスイスの地で聞いたのだ。

「僕たちはまた一緒に円卓を囲んで座るのかな、それかあの同じピアノの燭台のもとに集まろうか?」
弟ルネが最後に送ってよこした手紙を手に、ヴィエルヌはピアノ五重奏曲を渾身の力をもって書き上げ、1920年にパリに戻ってきた。

「あらゆる種類の苦しみを体験したものは、同じような苦悩を抱えた人を癒す術を心得ているはずであって、それこそが芸術家の役割なのだ。」
そう語るヴィエルヌは、書き上げたピアノ五重奏曲を”亡き息子の思い出に”捧げ、自分のかつての教師であり友であるモーリス・ブラジーに託した。

「引退した愚かな羊の鳴き声の中ではなく、雷の轟の中で埋葬する」
そうして亡き息子を安置したその場所、ピアノ五重奏曲においてヴィエルヌは自身が聴き得た限りの全ての音を容赦なく叩き込んだ。この壮絶なドラマはそのようにして書き上げられた。

師フランクから直接に譲り受けたものだけではなく、リストのメフィストの踊り、ショパンの革命の歌、フォーレやドビュッシーとの邂逅、ロシアの大門、そして新ヴィーン楽派… オーストリア帝国の滅亡を持って終わった大戦争、そのすべてを弔わんとしたこの大作は1920年に初演され、ヴィエルヌはこの超絶的なピアノパートを自分で弾いた。

いまからちょうど100年前のこと、芸術の存在が未曽有の危機にさらされる中、ただ一つの答えを出すためのあらゆる可能性を導入して明らかにした道標は、果たしてどこに向かって示されていたのか。

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2018年6月28日(木)&29日(金)
「ヴィエルヌ&フランク」
ヴァイオリン: 高木和弘
ヴァイオリン: 田中佑子
ヴィオラ: 米田舞
チェロ: 中島紗理
ピアノ: 大野真由子
http://www.cafe-montage.com/prg/18062829.html