ショパンには2歳年下の妹がいた。
名はエミリア。音楽のショパンに対して、文学のショパンともなるべき才能を若くして示した彼女は、兄フレデリクとともに「文芸娯楽協会」を立ち上げ、会長に就任した兄の秘書を務め、演劇の台本を書いて共に演じた。
兄との共作「失策、あるいは見せかけのペテン師」では、迫真の演技で市長役を演じる兄フレデリクの横で、エミリアは作者役として座っていた。エミリアは人を笑わせることが得意で、病弱な兄とは違って常に快活であったのに、14歳にして結核にかかり、そのまま回復することなく2か月後に死んでしまった。
1827年4月10日にエミリア・ショパンは息を引き取った。それはベートーヴェンが死んだちょうど2週間後のことであった。ショパンの作風に最初の大きな変化が現れたのはこの時期のことであったといわれている。
フレデリク・ショパンは有名なソナタ第2番の第3楽章(変ロ短調)以外にもうひとつ、ハ短調の葬送行進曲を書いている。1827年もしくはその前年の作曲とされているその作品に、はっきりと現れているベートーヴェンの存在について、何を語ることが出来るだろうか。
ベートーヴェンの作品26の第12ソナタ、そして作品55の第3交響曲の葬送行進曲を受け継いだ音楽の一番最初のものとして、シューベルトの「白鳥の歌」の中、ベートーヴェンの遺品から引き継がれたレルシュタープ詩の「兵士の予感」が知られているが、そのハ短調の作品が書かれたのは1828年のことなのだ。
葬送行進曲においてベートーヴェンとシューベルト、そしてショパンの人生が交錯するのを見たあとで、今度はシューベルトの死の年に完成されたショパンのピアノ三重奏に目を向けると、この唯一無二の作品がロマン派において果たした役割の大きさを思い知ることになる。
「ベートーヴェンよりはモーツァルトを好む」というロマン派において、ある重要な感情の留保のためにショパンやブラームスに、そしてリストにおいてさえ用いられる常套句について。いまでも、バッハへもしくはモーツァルトに対するノスタルジーを表明する横で、誰もベートーヴェンに帰れとは言わないのである。
同じト短調で書かれたモーツァルトのピアノ四重奏曲の冒頭を彷彿とさせる、ショパンのピアノ三重奏曲の中に刻印されているベートーヴェン、それは葬送行進曲のそれではない。そこに現れるのは意外にもハンマークラヴィーアソナタであり、後期の弦楽四重奏曲なのだ。
1828年、父の知り合いのヤロツキ教授が大きな学会に参加するのに運よく連れられて、初めてベルリンに赴いたショパンは、毎日劇場に赴き、楽譜屋で物色するなどする傍ら、学会の晩餐会にも出席して、そこに招待されていいたメンデルスゾーンやシュポアを遠目に見て、しかし自己紹介をすることはしなかった。
すでにその前年、ベートーヴェンの後期作品に寄せた弦楽四重奏曲を作曲していたメンデルスゾーンはレルシュタープ詩によるカンタータ「歓迎」を学会のために持参し、それは700名の招待者の前で演奏された。それを聴いたショパンとメンデルスゾーンが初めて出会うのは3年後のパリにおいてのことである。
ベルリンから帰ったショパンはすでにほぼ書き終わっていたはずのピアノ三重奏曲に取り組み、しかし完成させることはなかなか出来なかった。その年末の書簡の最後に、ショパンではない人の手で「三重奏、まだ未完成」と記載されていることから、この作品の完成を1829年とする意見もある。
ショパンのピアノ三重奏曲が、今ではほぼ忘れられているのはどうしたことだろう。まずこの作品はシューマンの晩年の室内楽作品、具体的にはヴァイオリンソナタ第2番とピアノ三重奏曲第3番の中で、ロマン派の記念碑のようにして再登場し、その数年後にはブラームスのピアノソナタの中にも登場するのである。
シューベルトの2曲のピアノ三重奏曲の翌年、ロマン派最初のピアノ三重奏曲ともいうべき作品を書いたショパンを、ベートーヴェンとシューベルト亡き後の空白を抱えていたウィーンが熱狂的に受け入れたのは1829年の事である。
ショパンはまずリヒノフスキー伯爵、そしてシュパンツィヒやチェルニーともすぐに親しい仲となり、ウィーンにおけるベートーヴェンサークルの中心に引き摺り込まれた。1830年、ウィーンでポーランド蜂起を伝え聞いたショパンは、その翌年パリに赴き、そこでリスト、そしてメンデルスゾーンと出会うことになる。
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2018年6月23日(土) 20:00開演
「ショパン&フランク」
ヴァイオリン: 馬渕清香
チェロ: 上森祥平
ピアノ: 多川響子
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