シューベルトが未完成の作品をたくさんの残したのは、それが楽譜ではなく録音テープであると思ってみれば想像がつく。蓄音機の時代には盤片面の最初から最後までを一度に録音したものがそのまま商品となっていた。しかし、テープの時代になると録音した音をそのまま使うという事はなくなった。
シューベルトはまず素材となる音楽を大量にRecordingして、あとで編集するということをしていた。そして、その時には切り捨てて使わなかった素材を、あとで他の作品に取り込むようなこともしていた。そして、編集がまだ終わっていないテープが大量に残されている。
ブラームスがブライトコップフのシューベルト全集について未完成のものまで「あるものをすべて出版するという方針がまずかった。残念だ!」といったのは、ブラームスの制作システムがシューベルトと似たものであったことの告白でもある。
でも、ブラームスは編集の終わってないものや、無用となった素材はすべて廃棄した。
モーツァルトはどうであったかというと、やはりブラームスのように自作の管理を徹底して行っていた。モーツァルトの場合はデジタルのデータのままで思いのまま編集できる最新の制作システムを所有していたから、そもそも廃棄物が発生しないということでもあった。
ブラームスにあってシューベルトに無かったものは、ものを捨てる能力である。「いつか必要になる」といって素材の山の中でご機嫌に暮らしていたシューベルトが、本当に不滅の大作を残してしまったこと。
21世紀、素材というゴミという宝物のなかで暮らしている人の心に、もっと光を!
ロ長調ソナタ D575の一番最後、いわゆる「ジャーン」終止があるのはどうしたことだろう、と考えた。
そして「ジャーン」終止からワイプアウトやAnd I love herのようなピカルディ終止などを様々に経た末へに、壮大な「ジャーン」終止のパロディとしてA day in the lifeを作ったジョージ・マーティンについて。
D575における「ジャーン」終止はそれを初めて聞く耳には唐突で、むしろその前のワイプアウトを利用できたはずだとも考えられるのだが、果たしてこれと同じことをした人が次の世代にも現われたことに気が付いた。ショパンである。ピアノソナタ 第2番の最後、あれは誠にシューベルト的、A day in the life的な逸脱行為であった。
そこで改めて、ニ長調ソナタ D850に目を向けてみる。まずガシュタイン旅行の楽しい気分を「さすらい人」の嵐で吹き飛ばし、山際に現われた雲を引きずり降ろして世界を霧で覆いつくし、泥酔したまま天国に召された会社員が長い雲の階段を上る様子が描かれ、その末にたどり着いた世界は…
ニ長調ソナタ D850は旅する魂をめぐる壮大なコンセプトアルバムである。シングルを作るときとはまったく異なるの手法でアルバムを編んだ、その制作方法は現代にいたるまでの一つの規範となっている。一つの歴史を作り出した、フランツ・シューベルトというプロダクションのお話。
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’18年4月8日(日)20:00開演
「F.シューベルト – D850」
ピアノ:佐藤卓史
http://www.cafe-montage.com/prg/180408.html