ウィーンの夜会

フランツ・リストの自己形成はメンデルスゾーン、ショパン、そしてシューマンと同じく速やかに行われたのだが、その成熟が比較的ゆっくりとした足取りでフランツ・リストに訪れたとき、つまりピアノソナタを書き終えて周りを見渡したとき…他の皆はもうそこにいなかった。

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1827年にベートーヴェンが死に、その3年後に最後の皇帝フランツ・ヨーゼフが生まれ、そのさらに翌年にベートーヴェンの最後のパトロンであったルドルフ大公が死去。ウィーンは音楽の中心ではなくなり、音楽の故郷となった。古典=クラシック音楽はこの時に生まれた。

真に偉大な作品がすべて、与えられた素材の自明で自然な継承によって実現したものであり、「独創性」によるものではないことを彼ら―モーツァルト、ベートーヴェンは知っているし、歴史もそれを絶えず繰り返し証明してきた。(フルトヴェングラーの手記より)

ロマン派の自己形成は、古典のように世代を渡って行われたものではなく、ウィーンを古典と仰ぎながら、たった一つの世代によって行われた。そして、ロマン派の次世代への継承を生きて見届けたのはフランツ・リストただ一人であった。

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1805年
アイゼンシュタットのエステルハージ宮殿からハイドンが去って15年後、新たに楽長に指名されたフンメルのもとで、アダムはチェロを弾いていた。経理に長けていたアダムは、アイゼンシュタットから50キロほど離れた田舎の羊を管理する仕事を与えられた。

1810年
田舎町ライディングで羊の群れを管理しながら、たまにエステルハージの音楽家たちを招待して室内楽を楽しんでいたアダムはアンナと知り合い結婚、翌年フランツ・リストが生まれる。6年後、フランツ・リストは、田舎町ライディングで父にピアノを習い出した。

1821年
すでに神童の名をほしいままにしていたフランツ・リストは、ウィーンにいた。そこでツェルニーの信頼を得て、ベートーヴェンとも邂逅している。そのときまさに「さすらい人幻想曲」を書いていたシューベルトとは、その徒歩圏内に住んでいたにも関わらず、会うことはなかった。

一つの時代の終りと始まりが刻まれた5年間。
1826年― メンデルスゾーン「真夏の世の夢」序曲を作曲
1827年― ベートーヴェン死去
1828年― シューベルト死去
1829年― ロッシーニがオペラの作曲から引退
1830年― シューマン「パピヨン」を出版
1831年― ショパン練習曲「革命」を作曲
1832年― リスト「ラ・カンパネッラ」第1稿を作曲

パガニーニの探求からピアノ・ヴィルトゥオーゾとして他に比べるもののない存在になっていたフランツ・リストは、1835年マリー・ダグー伯爵夫人とパリから駆け落ち、「巡礼の年:第1年」を作曲する。

1837年
フランツ・リストがミラノで開いたリサイタルにロッシーニ夫妻が臨席。その時の親交から
ロッシーニがオペラ引退の時から書き連ねていた歌曲集「音楽の夜会」をもとに、リストがピアノ独奏曲集「音楽の夜会」を作曲。

1838年
シューマンによるシューベルト発見の年、マリー・ダグー夫人との関係が終わりに近づいたリストは夫人と離れて15年ぶりのウィーンに滞在、センセーションを巻き起こしていた。フランツ・リストが18歳のクララ・シューマン(まだ結婚前)と出会ったのはまさにこの時のことである。

1839年
ロベルト・シューマンは、リストが重要な役割を果たしたベートーヴェン記念像にあてて作曲した「幻想曲」作品17をフランツ・リストに献呈した。ロベルト・シューマンの最高傑作に対する返礼として、それにふさわしい作品はいまだリストの手元には無かった。

1840年
パガニーニ死去。ライプツィヒでメンデルスゾーン、そしてロベルト・シューマンと再開したフランツ・リストの演奏スタイルはさらに奔放になっており、聴衆の興奮が最高潮に達する「リストマニア」といわれる現象を各地で巻き起こしながらツアーを行っていた。

1845年
ボンにてベートーヴェン記念像の除幕式。ヨーロッパ中の音楽家が注目したこの一大イベントでほぼ主賓といって良いの役目を務めたあと、パリにて、すでに最後のソナタを書き終えたショパンを訪問。これがこの両巨匠の出会った最後であった。

1847年
メンデルスゾーン死去。フランツ・リストはカロリーネ伯爵夫人と出会い、コンサートツアーを一切行わなくなる。ワイマールにて「ハンガリー狂詩曲」および「死の舞踏」などの作曲に没頭。翌48年、ワイマールの宮廷学長に就任。

1848年
革命の年。ヨハン・シュトラウス、「ラデツキー行進曲」作曲。ウィーンからメッテルニヒが亡命。オーストリア帝国最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ即位。フランツ・リスト、シューベルトのオペラ「アルフォンソとエストレッラ」の楽譜を入手。世界初演に向けての準備を始める。

1849年
ショパン死去。フランツ・リスト、ショパンのスタイルを取り入れたピアノ作品「葬送」、続いて「愛の夢」を作曲。ワーグナーのワイマール訪問。フランツ・リスト指揮による「タンホイザー」のワイマール初演。ワーグナー、「ローエングリン」をリストに託してスイスに逃亡。

1852年
フランツ・リスト、5年以上にわたって続けてきたフランツ・シューベルトの舞曲による幻想曲集「ウィーンの夜会」の作曲を終え、ロ短調のピアノソナタの作曲に没頭。ヨハネス・ブラームス、リストを訪問。それまでハンス・フォン・ビューローがいた部屋に3週間滞在。

1854年
フランツ・リスト作曲「ピアノソナタ ロ短調」の出版、1839年の「幻想曲」に対する返礼としてロベルト・シューマンに献呈。ロベルト・シューマン、ライン川に身を投じる。ブラームス、シューマン家に届いたリストのピアノソナタの楽譜を見ながら、クララの前で全曲演奏。

このあと、フランツ・リストは42年間生き、作曲を続け、無償でピアノを教えた。次世代のみならず世紀をまたぐことになる数多くの音楽家の目にその姿を焼き付けて世を去った。

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モーリス・ラヴェルは言った。
「ワーグナーの熱狂だけでなく、フランクの壮大さ、ロシア楽派の音画、何よりフランス楽派の和声的優美さに備わる並外れた色っぽさの、最高の美質を引き出してきたのは、フランツ・リストが振る舞った真実あふれる、音楽的カオスではないか…」

9曲からなる曲集「ウィーンの夜会」は、メフィストたるフランツ・リストの自由奔放な幻想が最高潮に達し、シューベルトの世界をとてつもないロマン派の渦に引き込んでゆき、そこではベートーヴェンさえもが優美な夜会の恍惚に浸っている、まさしくワルプルギスの夜会音楽というべき傑作。

バッハにはバロックは存在せず、ヘンデルは部分的にはバロックであるが…彼の内的生命は完全に別物である.。真のバロックはリストであり、部分的にはワーグナーも、ブルックナーも二、三の部分もそうである。しかし人々は、これを新ロマン主義と呼ぶ。なにゆえか?(フルトヴェングラーの手記より)

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2017年6月8日(木) 20:00開演
「ウィーンの夜会」
ピアノ: 佐藤卓史
http://www.cafe-montage.com/prg/170608.html