ヤナーチェクは1854年生まれ。
プッチーニより4歳、ドビュッシーよりは8歳年上である。作曲家としての活動は、ほぼ晩年に限られる。音楽の才能を早くから示し開花させながらも、50歳まではほぼ教育者として名を成した。一時はワルシャワ音楽院の院長になりかけた、でもならなかった。
その頃、つまりワルシャワ音楽院の院長になりかけてならなかった頃、ヤナーチェクはオペラ「イエヌーファ」を書き上げていて、すでに大作曲家としての後半生を歩き始めていた。ヤナーチェクは、その岐路で最愛の娘を失っていた。
26歳のヤナーチェクは、学生のころから面倒を見てくれた師範学校の校長の娘と結婚した。この娘ズデンカとヤナーチェクの間にはすぐに子ができて、でも生まれたのが女の子だったことでヤナーチェクはがっかりしたらしい、が、この生まれた子こそヤナーチェク最愛の娘オルガなのである。
オルガが生まれて、ヤナーチェクは自分の母を家に同居させたいとズデンカに迫った。ズデンカは怒って実家に帰った。ズデンカはまだ18歳だった。2年間別居した。その2年間の間に、ヤナーチェクはモラヴィア教会音楽促進協会を発足させ、続いてオルガン学校を作ってその校長になった。
ヤナーチェクは同時に合唱指揮者、そして音楽雑誌を創刊して編集者の仕事もした。そのような多忙な状況が続く10年ほどのなかで、彼は民族学者のバルトシュを通じてモラヴィアの民俗音楽の収集に傾倒していく。
同じチェコでも、ある意味ではウィーンの音楽、ひいては西洋音楽の基礎となったボヘミアの音楽と違い、モラヴィアの音楽はハンガリーの音楽と同様まだ東洋に属していて、ヤナーチェクはモラヴィアの音楽を西洋に同化させるという、20世紀の大きな流れとなる東と西の融合の先駆を担った。
散文のリズムをそのまま旋律に応用するとことで、19世紀のリアリズム文学のテキストを音楽の中で明瞭に響かせて、当時のヴェリズモオペラのある意味では最先端ともいえる「イェヌーファ」を9年かけて書き上げたのは1903年、ヤナーチェク49歳の時である。
「イェヌーファ」を書き上げる直前、ヤナーチェクの最愛の娘オルガはチフスにかかって死の床にあった。オルガは「イェヌーファ」を父の演奏で聴きたいと願い、その「死にたくない」という叫びの旋律を手帳に書き留めて、ヤナーチェクはピアノに向かった。その5日後にオルガは世を去った。
「イェヌーファ」と同じ時期に書き始められ、7年をかけて1908年に完成したのが,シューマンの「子供の情景」そして同じ1908年に書かれたドビュッシーの「子供の領分」に並ぶ、ピアノ作品におけるメルヒェンの傑作、「草陰の小径」である。
教師の息子として生まれたから、19世紀リアリズムそのままの人生を歩んだヤナーチェク。全編にわたって幻想に彩られ、リアリズムの絶叫を挟んでは、何事もなかったかのようにひたすらに夢の中を進んでいく音楽。「草陰の小径」は日常という言葉の意味を、今現在も問い続けている。
夏目漱石の後期三部作。その最初に「彼岸過迄」という組曲のような作品がある。自身の臨死体験と最愛の娘の死去を超えて1912年に書かれたこの作品は、探偵小説かのように進んでいく中に静かな絶叫を挟み、段々に太宰治をすら超えていくようなエゴイズムの世界に分け入っていく。
その親しみやすい仮想世界の中で多くの価値転換を体験することによって、人生を俯瞰する力を得ようとする。ヤナーチェクの後半生に書かれた音楽はそうした意味で一貫してリアリズムであり同時に前衛であった。「草陰の小径」にはその理想の形が言葉のない世界いっぱいに描かれている。
ただ過ぎてゆく日常とその影を見て、懐かしい人のいた景色を思い起こす夏。
・・・・・・・・・
2016年8月10日(水) 20:00開演
「L.ヤナーチェク」
ピアノ: マルティン・カルリーチェク
http://www.cafe-montage.com/prg/160810.html