“『シューマンを聴きながら』という絵があるのを、ご存じですか?”
カフェ・モンタージュの近くに一保堂という有名なお茶屋さんがあって、その向かいのビルにビザールというハンドメイドの帽子屋さんがある。そこのご主人が趣味人で、モンタージュにいらしてはいろいろ変わった音楽を聴きたいとリクエストしてくれる。そのビザールさんのアトリエにお邪魔した時のこと、この絵が話題に上った。曰く…
「クノップフという人が書いた絵です。僕、その絵が好きでね。ほら、いつも作ってらっしゃるコンサートのチラシ、いつかシューマンを取り上げることがあればと思って。」…
Fernand Khnopff:En écoutant du Schumann (1883)
1年以上前に教えてもらったこの絵が、「シューマンの6月」の静かな始まりとなった。
「フモレスケ」
シューマンにとって、ユーモアとはジャン・パウルそのものであった。
ジャン・パウルを読まない人、理解しない人とは話が出来ないとして、人に会うたびにシューマンは「ジャン・パウルを読んだか」どうかを確認してから接していた。
ジャン・パウルの小説は、ユーモアという一言で片づけるには忍びないほどに革新的で、しかしユーモアとして接する他ないほどに脈絡がない。
そんなジャン・パウルの作品に『生意気盛り』というものがある。 シューマンが生涯繰り返し愛読した作品である。
あらゆる手の込んだ形容がその場で陳腐となる。あたり構わずフルートを吹き散らし、それを聴いて凍った人の心が、さながらグーグル翻訳のようなぶった切りの言葉が宙を飛び交う中で忽ちに沸騰して、川のほとりでため息をつく。
「諸君は」と主人公は叫ぶ。「聖なる友情とはなにか、恋愛とのその崇高な違いについて学んだことがない」「一つの全体が一つの全体を、一人の兄弟が一人の兄弟を、神が宇宙を憧れるのであって、愛してそれから創るためというよりは創ってそれから愛するためである、ということを知らない」
「このように彗星は続く」…「しかし」「もっと気持ちのよいこと、かの七人の遺産泥棒について話そう」
『生意気盛り』は容赦のない世間批判と、まったく理解の追い付かない幻想的描写であふれている。
その『生意気盛り』を「ドイツの魂」と表現したヘルマン・ヘッセは、彼の小説中、この世における美を理解したばかりに悲壮の極致に到達し、しかし死ぬこともできない主人公に対して、「絞首台でユーモアを学ぶだけだ」と作品末に突然登場するモーツァルトに語らせていた。
と、ジャン・パウルの作品と無謀な格闘をしているうちに、シューマンがフモレスケを掲げてこちらに歩いてきた。なるほど、ユーモアというものは、突然にあらわれるからユーモアなので、それは常に不意打ちなのである。受け入れるしかない。そうすれば、シューマンが口を開いてくれるかも知れない。
音楽でも、言葉でも表現できないものを、幻想の世界に託したロマン派の音楽表現としては最高峰ともされる作品「フモレスケ」。タイトルをクノップフ作品の上に掲げた時に、泣いているように見えていた画中の女性が突然に笑い出した。
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2015年6月28日(日) 18:00開演
「フモレスケ」 ― ロベルトシューマンの6月
ピアノ:鈴木華重子
http://www.cafe-montage.com/prg/150628.html