フンメルに捧ぐ

1821年1月25日、シューベルトの作品がウィーンの楽友協会ではじめて聴かれた。ギムニヒの歌唱、ピアノはシューベルト自身(もしくはアンナ・フレーリヒ?)で作品は「魔王」であった。

同じ年にシューベルトはピアニストもしくはヴィオラ奏者として楽友協会に登録された。同じくピアニストとして登録のあったリーベンベルクと知り合ったのはこの頃のことではないかとされている。フンメルの弟子で腕の立ったリーベンベルクはピアノの作品を書いてくれないかとシューベルトに頼んだのであるが、その願いは果たして翌年にハ長調の「さすらい人幻想曲」として叶えられたのであった。

シューベルトが規模の大きなピアノソナタを3つ立て続けに書いたのは1828年、体調を悪くして友人ショーバーのところから兄フェルディナントの住居に居を移してすぐの9月のことであった。 “フンメルに捧ぐ” の続きを読む

あなたがここにいてほしい

「インヴェンションとシンフォニア」は、もともとは『クラヴィーア手帳』に掲載されていて、そこでは「前奏曲と幻想曲」というタイトルが与えられていた。

その『クラヴィーア手帳』には「ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのための」という但し書きがしてある。つまりバッハの長男フリーデマンのチェンバロ学習のために編まれた曲集だということだ。 “あなたがここにいてほしい” の続きを読む

バラードの年、荘厳ミサの年

ゲーテとシラーのいわゆる「バラードの年」といわれている1797年のこと。

21歳のアブラハム・メンデルスゾーンはみずからの銀行設立を決断してパリに向かった。その途中でイエナに立ち寄ったアブラハムは、友人ツェルターが彼に託していた歌曲集を詩人シラーに手渡した。
シラーがその楽譜をゲーテに見せたところ、ゲーテは興味をひかれたようであった。なぜなら、 “バラードの年、荘厳ミサの年” の続きを読む

シューベルトの「西東詩集」

カップのサイズや、飲み口が厚かったり薄かったりで、コーヒーの味が違う!という主張を始めたのはどこの誰なのだろう。

「そんな違いはない」と反論するのは自由だ。
「違い」はコーヒーなどという黒いものを飲む人間の感覚と思考のあいまいさが生む誤謬であって、マイセンであろうが清水焼であろうが、味そのものは同じなのである。そのことに文句はあるだろうか。

そこにきて「味とはなにか?」である。 “シューベルトの「西東詩集」” の続きを読む

プロメテウスの音楽とチェロ

まずは形なのである。
はじめに人形をつくり、その人形を人間にする。
ベートーヴェンの『プロメテウスの創造物』には、そう書いてあるそうだ。

プロメテウスは絶対神ジュピターの子である。

プロメテウスは泥から人形をつくり、その心に灯をともした。

ところが、泥人形が野蛮な動きを見せたので、 “プロメテウスの音楽とチェロ” の続きを読む

ブルッフの新作

作曲家マックス・ブルッフは1838年、つまりブラームスより5年後に生まれ1920年、つまりブラームスより23年あとに死んだ。

ドビュッシーが死んだ1918年、80歳のブルッフにベルリン大学から神学と哲学の名誉博士号が贈られた。その授賞式の翌日、ベルリン音楽院の芸術アカデミーにおいてコンサートが催された。その場でブルッフを讃える演説をしたのが音楽院長のヘルマン・クレッチュマルだという。

ヘルマン・クレッチュマルは、言わずと知れたトーマス・マンの「ファウスト博士」に登場するクレッチュマル先生のモデルとされている。 “ブルッフの新作” の続きを読む

交響的時間

ブラームスのチェロソナタ 第2番 op.99を聴く公演に、この作品が交響的だからという理由で「シンフォニック・タイム」というタイトルを付けた。

このチェロソナタの冒頭には、直前に書かれたブラームスの交響曲 第4番の冒頭がまったく違う形であらわれている。 “交響的時間” の続きを読む

Holbergの時代から

京都府立図書館でノルウェー文学の祖といわれるホルベルクの書いたものを何か読もうと思ったら「デンマーク文学作品集」という本しか見つからない。

1380年から1814年まで、ノルウェーはデンマーク王の統治下にあった。
つまり、ほぼ500年にもわたってノルウェーはデンマークだったらしい。
そんなに単純なことではないかもしれないけれど、ハムレットはそんなまだ大国であった時代のデンマーク王子の話なのだ。
そのハムレットの死に際にデンマーク王に名乗りでるフォーティンブラスはノルウェーの王子だが、そのあとどうなったのかは誰も知らない。 “Holbergの時代から” の続きを読む

飛行先としての「1920」

近代ベルギーを代表する作曲家ジョゼフ・ジョンゲンは1873年生まれ。
つまり生誕150周年?とはいえ、フルートとピアノだけで演奏時間が30分に迫る大作を聴くことの出来る機会が、たやすく生まれるわけではない。

ジョンゲンのフルートソナタは1924年、パリ音楽院のフルート科教授であるルネ・ルロワのために書かれたが、 “飛行先としての「1920」” の続きを読む

知りすぎていた男。ヒンデミット

作曲家パウル・ヒンデミットは、彼が生きた時代そのものを代表する巨匠である。
1895年に生まれ、20歳でフランクフルトのコンサートマスターになった頃に世界大戦に巻き込まれ、戦争で父を亡くしたあと、作曲活動が表ざたになってから、ヒンデミットは常に時代の中心にいた。

1921年、ドナウエッシンゲンの現代音楽祭が誕生したとき、彼は既にそこにいた。1922年、始まったばかりのザルツブルク音楽祭において現代音楽の集まりがあったときにも、やはりそこにいた。
“知りすぎていた男。ヒンデミット” の続きを読む