「シューマンの演奏会に寄せて」 - 上野真
今回のオール・シューマンプログラムは、最初期の作品パピヨン(蝶々) 作品2、成熟したシューマンのピアノ作品中の最高傑作とも言える幻想曲 作品17、そしてクララとの結婚直後に出版されたウィーンの謝肉祭の道化 作品26、という3曲をメインにプログラムを組みました。
パピヨンは1829年から31年までの間、彼がまだハイデルベルクで法律を学んでおり、そしてライプツィヒで音楽家としての勉強を専門的に始めた頃に作曲された作品ですが、既に彼の個性は際立っています。10代の彼に最も影響を与えた小説、ジャン・パウルのFlegeljahre(日本では「生意気盛り」他色々な邦訳邦題がありますが、1804-1805年に出版された、当時の最もドイツ的な精神を表した小説と言われます。内容の複雑さから翻訳が最も難しい作家の一人でしょう。恒吉法海氏の翻訳の偉業には脱帽です。)に直接の影響を受けて書かれました。1832年4月にライプツィヒのキストナー社により出版されました。
幻想曲は、シューマン自身がそれまで書いたものの中で最も充実した作品と述べたもの(特に第1楽章)で、凝りに凝ったモチーフとテーマの使用、細部までの拘りを見せた、意欲的な「幻想ソナタ」とも言える作品です。もともとはボンのベートーヴェン記念碑の建立の為に書かれた作品です。(因みにこの記念事業の為に、ヨーロッパ中の作曲家が寄付をしたり、作品を残したのですが、その中の重要なピアノ曲の一つにメンデルスゾーンの「厳格なる変奏曲」作品54があります。)
シューマンの幻想曲は、ベートーヴェンの歌曲「An die ferne Geliebte」(遠くにいる恋人へ)を強く念頭に置いたもので、そのモチーフは直接引用されています。記念碑の建立に最も貢献し、この作品を見事に弾いたと伝えられているリストに献呈されています。(但しリストの演奏は、シューマンが想像していた音楽とは違っていたそうです。)
1835年と36年を中心にその後数年かけてライプツィヒで作曲され、1838年10月からのウィーン滞在中にも手が加えられ、最終的に1839年4月にブライトコップフ社により出版されました。
ウィーンの謝肉祭作品26は、将来クララとの結婚生活を始める為にはライプツィヒを離れねばならない、というヴィークの出した条件を考慮しなければならなかったシューマンは、1838年10月から1839年4月まで、その下調べのためにウィーンに滞在していました。それがきっかけとなって1839年3月頃から作曲され、ライプツィヒに戻ってからも作曲が続けられ、1841年にウィーンの出版社ミケッティ社から出されたものです。(ウィーンでクララと生活する、という計画は結局実りませんでした。因みに同年全く同じ出版社からショパンの「演奏会用アレグロ」作品46が出版されています。)
クララから、演奏会のために、華麗で、聴衆に分かりやすい作品を作ってほしいとの希望により作られた曲です。全体としては非常に健康的な、明るいピアニズムが支配的な作品です。5楽章形式のソナタとも言えるでしょう。副題にはFantasiebilder(幻想的絵画集)と、E.T.A.ホフマン風のタイトルがついています。なおオリジナル・タイトルのFaschingsschwankというのは、通常は謝肉祭の道化と訳されていることが多いですが、謝肉祭の茶番劇とか、謝肉祭の(空)騒ぎも意味するようです。